度重なる権威の失墜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 23:56 UTC 版)
「ヴェンツェル (神聖ローマ皇帝)」の記事における「度重なる権威の失墜」の解説
ヴェンツェルは1383年に死去した同名の叔父ヴェンツェル1世からルクセンブルクを受け継いだが、1388年にルクセンブルクをヨープストへ借金の抵当として渡してしまった。以後ルクセンブルクは他国の人間に転売され続けた末にルクセンブルク家から離れていった。同年にジギスムントも同じくブランデンブルクをヨープストへ抵当として譲ったためヨープストの力が増し、反対にヴェンツェル兄弟が領土を失う羽目に陥った。 それだけでなく、ボヘミアでも失政を重ねた。1393年、ボヘミアに司教座を設置しようとしてプラハ大司教ヤン・イェンシュテインと対立し大司教を投獄、すぐに釈放したが側近に拷問を加え、大司教総代理のヤン・ネポムツキーを殺害する事件を起こした。それが切っ掛けで上級貴族とヨープストが扇動した反乱が起こり、1394年5月にヴェンツェルはヨープストに捕らえられ監禁されてしまった。数ヶ月後に末弟ヨハンの尽力で釈放されたが、1396年にヨハンが死去、代わりにジギスムントを頼りにしたが、ハンガリー王の彼にはボヘミアへ介入出来る暇が無く、貴族層の要求でヴェンツェルは高官の任命や地方の裁判権を上級貴族へ明け渡し、王権を衰退させた。 ローマ王廃位後もボヘミアの混乱と一族間の対立を収められず、1402年に対立したジギスムントの手により再び監禁、ジギスムントと懇意にしていたハプスブルク家への人質としてオーストリアのウィーンへ移送される有様だった。翌1403年に釈放されプラハへ帰還したが、ボヘミアは治安悪化で盗賊が荒らし回り、都市や修道院が対抗のため武装、貴族と聖職者の権力争いなどで先が見えない不穏な情勢に覆われていた。
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