度重なる焼失と再建
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 22:57 UTC 版)
元和3年(1617年)神田の台における堀割(神田川)の開削工事が決まったために同地から下谷池之端(現在の台東区上野2丁目付近)に移り、18間四方あったという壮大な本堂と40あまりの学寮を備えて檀林としての偉容を整えた。しかし、明暦3年(1657年)のいわゆる振り袖火事に類焼して堂宇を全て焼失してしまった。このため万治2年(1659年)に浅草神吉町(現在の台東区東上野5丁目23・24番地の辺り、上野学園敷地を含む近接地)に移って再建、本堂・開山堂および学寮40余を建立し、その新境内地は広さは8259坪ほどあったとされる。延宝3年(1675年)には徳川家綱より朱印地50石を給与されている。下付されたその朱印状には「武蔵国豊嶋郡下村之内」とあるが具体的地名は不詳。なお、この時に幡随院の院号を定めたと伝わる。 その後、天和2年(1682年)12月にいわゆる「お七火事」に類焼。ついで元禄11年(1698年)の「勅額火事」でも焼失したとされる。元禄14年(1701年)徳川綱吉生母・桂昌院の援助により本堂・開山堂が再建された。この時の桂昌院の寄進額は1800両にのぼったとされ、再建本堂は梁間が12間、桁行が13間、「壱ツ棟瓦葺」の立派なものと記録される。この頃から民間の寺社詣での流行も相まって阿弥陀堂や薬師堂も備え、幡随院は参詣者で賑わったという。寛延3年(1750年)には22世・了碩和尚が同寺で2人目となる一代紫衣着用の綸旨を賜る。明和9年(1792年)目黒行人坂火事で類焼したが、関通上人の助力もあって黄金600両余の寄付も集まるなど早期に再興がなり、唐破風造りの京間15間x13間で再建した。この後も度々火災にみまわれて堂宇を焼失し寺勢は衰微して、最盛時に48宇もあった学寮は文政元年(1818年)には9宇に減少し塔頭寺院も5箇寺、檀家数は13軒となっていた。
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