府官の出自
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/24 10:47 UTC 版)
425年に讃は宋に使節を派遣するが、そのときの使者曹達についてわかっているのは名前だけであるが、それは人物を推測するうえで手がかりとなる。中国的な姓は曹、名が達である。当時の日本列島における人名は、稲荷山古墳出土鉄剣の「乎獲居(ヲワケ)」や江田船山大刀にみえる「无利弖(ムリテ)」のように、姓を持たず名のみであり、それは二から三文字程度で書き表されており、このような型に当てはまらない曹達は、外国からの渡来人であろう。倭国が中国と直接的な外交関係に取り組んだのが421年、曹達が宋に派遣されたのが425年であり、中国からではなく朝鮮半島から渡来したとみることもできるが、曹達ら府官となった人物はその名前の型から中国系の人物とみなすべきである。当時の高句麗人や百済人の名前は、「牟頭婁(ムトウル)」や「賛首流(サンシュリュウ)」などであり、姓が記されていない点で中国系とは異なる。当時の朝鮮半島には中国系の人々が多くいた。314年頃に高句麗が西晋の朝鮮半島における出先機関である楽浪郡・帯方郡を滅ぼすが、楽浪郡・帯方郡の中国系の役人や知識人がすべて西晋に帰国できたわけではない。多くは高句麗に吸収、高句麗の支配機構の整備に利用され、高句麗が府官制をもっとも早くに導入できたのには、そうした背景がある。帯方郡からそのまま南に避難すると百済に行き着き、百済もそうした中国系の人々を国家形成に活用した。それは百済における府官のあり方からも明らかであり、百済で採用された府官の名をみると、百済の余礼のように百済王と同じ余姓を有する王族とみられる人物もいるが、多くは中国的な人名であり、424年の張威、472年の張茂、495年の張塞はいずれも張姓であり、同族の可能性がある。495年の王茂も楽浪郡に勢力を張った楽浪王氏の子孫とみられる。4世紀から5世紀初頭にかけて倭国への渡来人の到来があったとされるが、中国系の人々が倭国に渡来したとしても不思議ではない。中国系の人々は朝鮮の権力に取り込まれながら世代を重ね、朝鮮の権力者にとって中国系知識人のもつ知識は魅力的であり、また中国系の人々にとっては知識は生き残るために必須の手段であり、世代を超えて継承された。そうした知識を身につけながら、5世紀初頭に倭国にまで到達したのが曹達であり、倭国もまた中国の知識を重視した。高句麗や百済が中国系知識人を活用するなか、自国が後れを取ることに危機感をもっていたであろうし、曹達以前にも同様の人々を取り込んでいた可能性もある。中国系知識人は倭国の王の直属の側近として権力者と政治的に結びつくことで、自らの立場を確保しようとし、倭国王にとっても、中国系知識人との直接的な関係は日本列島の豪族たちに対するアドバンテージになり得るものとして歓迎され、倭国王と中国系渡来人は日本列島で共依存的な関係となり、讃と曹達は、それぞれの立場から5世紀に府官制を制度的に取り入れたといえる。
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