広州へ左遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 08:59 UTC 版)
乱が平定されると、王敦は陶侃の功績を深く妬むようになった。陶侃は任地の江陵に帰還する前に、王敦の下を訪れて別れの挨拶をしようとした。皇甫方回と朱伺らはこれを諌め、行かぬよう進言したが、無礼に当たるとして陶侃はこれに従わなかった。果して王敦は陶侃を拘留して返さず、広州刺史・平越中郎将に左遷し、代りに従弟の王廙を荊州刺史に任じた。荊州にいた陶侃の属官・将士達は王敦の下を訪れて陶侃の留任を請願したが、王敦は怒ってこれを許さなかった。陶侃配下の鄭攀・蘇温・馬儁等は南下に同意せず、遂に西の杜曾を迎えて王廙の荊州入りを拒んだ。王敦はこれを陶侃の意思と思い、甲冑を纏って矛を持つと、陶侃を殺そうと思った。だが最後の決断が出来ず、何度も陶侃の下へ赴いては何もせず戻った。陶侃は厳粛となって「使君は剛毅果断であり、まさに天下をも裁く事ができるのに、この程度の事を決断することが出来ないのですか」と徴発し、立ち上がって便所に行った。諮議参軍の梅陶や長史の陳頒は王敦へ「周訪と陶侃は姻戚関係にあり、まさしく左右の手のようであります。左手を切ったときに、右手が反応しないことがありましょうか」と言うと、王敦は考えを改め、盛大な餞別の宴会を設けて陶侃をもてなした。陶侃はその夜すぐに広州へ出発した。また王敦は陶侃の子陶瞻を自分の下に留めて参軍に抜擢した。陶侃は豫章に到着した時に周訪に出会うと、涙を流して「汝の外援が無ければ、我の命は風前の灯であったであろうな」と謝した。その後、軍を進めて始興に到着した。 これより以前、広州の人々は刺史の郭訥に背き、長沙出身の王機という者を迎えて刺史に擁立していた。王機は使者を王敦のもとへ派遣し、交州刺史の位を求めたが、王敦がこれを許しても出発しようとしなかった。当時、杜弢の残党である杜弘が臨賀に拠っていたが、王機は杜弘に降伏を乞い、杜弘へ広州を取ることを勧めた。杜弘はこれに従い、遂に温邵と交州の秀才である劉沈と共に謀反を起こした。このため、ある者が陶侃にしばらく始興に止まり、形勢を観察するよう進言したが、陶侃はこれに従わず、すぐさま広州に向かった。杜弘は偽装投降により奇襲を目論むが、陶侃はこれを見抜き、先に封口という地に発石車を配置しておいた。杜弘は軽兵を率いてやって来たものの、陶侃に備えがあるのを知って退却し、陶侃はこれを追撃して破り、劉沈を小桂で捕虜とした。また配下の許高に命じて王機を討たせ、これを斬首し、首級を都に送った。諸将はみな勝ちに乗じて温劭を攻撃するよう求めたが、陶侃は笑って「我の威名はすでに知れ渡っており、改めて兵を動かす必要はあると思うかね。そうしなくとも1枚の書物で解決させることができるであろう」と言い、書面を以って温邵を諭したところ、温邵は恐れをなして逃走し、これを追って始興にて捕らえた。この功により柴桑侯に封ぜられ、食邑は四千戸となった。 大興元年(318年)、陶侃は平南将軍に任じられた。しばらくして都督交州諸軍事を加えられた。 永昌元年(322年)、王敦が挙兵して謀反を起こした。3月、朝廷は詔を下し、陶侃の職務はそのままに江州刺史を兼任させ、やがて湘州都督・湘州刺史に転任した。王敦が建康を陥落させると、朝政を牛耳るようになり、陶侃を広州刺史に戻し、散騎常侍を加えた。 賊の梁碩が交州刺史の王諒を殺害すると、陶侃は将軍の高宝を派遣してこれを平定した。朝廷は命を下して陶侃に交州刺史を兼任させ、また前後の功績により次子の陶夏は都亭侯に封じられ、陶侃は征南大将軍・開府儀同三司に昇進した。
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