常陸の掌握
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 22:46 UTC 版)
「佐竹義宣 (右京大夫)」の記事における「常陸の掌握」の解説
小田原の役後、義宣は、かねて伊達政宗と争奪戦を繰り広げていた南奥羽(滑津、赤館及び南郷)について、秀吉から知行として認められ、奥州仕置の後、本領である常陸国(結城氏領を除く)及び下野国の一部、計21万貫余(35万石余)を知行として安堵する旨の朱印状を与えられた。 天正18年(1590年)8月1日、に秀吉から安堵された常陸及び下野の一部の領地21万6,758貫文(25万5,800石)は下記の通り宛知行された。 11万石 佐竹義宣 1万石 佐竹義重 1万石 佐竹義久 12万8,800石 与力家来分 佐竹氏と与力家来分の比率は50.2対49.8となっており、領主権力としては貧弱であった。これらの領地や家来には、秀吉に服従せずに独立を認められなかった勢力が佐竹氏の配下として編入された分が含まれ、家臣化は不十分であった。以後、義宣は秀吉の権威を背景に江戸氏・常陸南部に割拠する大掾氏配下の国人たち(いわゆる南方三十三館、主として鹿行両郡の塚原氏・行方氏・卜部氏・麻生氏・鹿島氏など万石未満の土豪)を討伐するなど領主権力の強化を進めることとなる。 これにより、佐竹氏は徳川氏や前田氏、島津氏、毛利氏、上杉氏と並んで豊臣政権の六大将と呼ばれたという。 また、義宣は、天正18年(1590年)12月23日、秀吉の執奏によって従四位下の位を賜り、侍従・右京大夫に補任され、天正19年(1591年)1月2日には、秀吉から羽柴姓を与えられた。 義宣は、朱印状による所領安堵の直後から、常陸国全域に支配を及ぼすことを企図し、まずは、居城を太田城から水戸城へ移すこととした。当時の水戸城主は、小田原征伐の際に参陣しなかった江戸重通であった。義宣は上洛中であったので、水戸城攻略は父・義重が行い、天正18年(1590年)12月20日、水戸城を攻め落とし、同月22日には、府中(後の石岡市)に拠る大掾清幹を攻めて大掾氏を滅亡させた。 天正19年(1591年)2月9日、京から帰った義宣は、鹿島郡及び行方郡に散在していた「南方三十三館」の国人衆で、まだ生き残っていた勢力を謀殺して、常陸国全域の支配権確立に成功した。 天正19年(1591年)3月21日、義宣は水戸城に移り、佐竹義久に水戸城の整備拡張を命じた。水戸城に本拠を移した直後の6月、豊臣政権は義宣に奥州出兵2万5,000人という非常に重い軍役を命じ、この動員は10月まで約4ヶ月間続いた。
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