市民警備隊、ハンザ義勇軍、ハンブルク駐屯部隊およびハンブルク歩兵連隊
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「ハンブルク市民軍」の記事における「市民警備隊、ハンザ義勇軍、ハンブルク駐屯部隊およびハンブルク歩兵連隊」の解説
ハンブルク市民軍は、時代によって他の防衛組織と並びつつハンブルクに存在してきた。その構成部隊は、常設のハンブルク駐屯部隊と異なり、兵舎に置かれなかった。これらが共存した理由は、その性質の違いにある。ハンザ都市の支配層(ハンゼアート(Hanseaten (class)))は、規則的に将校団を構成してきた都市貴族に依存する一方、ほとんど旧来の住民に占められた兵卒を忌避していた。ハンブルクは危機の際、防衛施設に充分な兵員を配置して防戦するためにこれらの部隊を必要としていたものの、これのみに依存することを望まなかったのである。危機に対する第二線部隊としてのハンブルク市民軍は、とりわけ構成員が費用を自弁せねばならなかったことから、他の手段を取る場合に必要となる常備軍の増強より安くついたのである。ハンブルクは13世紀末から事実上の自衛権を保持していた。そのため他の地では、例えば諸侯に外交的な地位向上の手段を渡さないため追求された、市民の武装化とは無関係であった。しかし市民の方でも、市参事会(de:Senat der Freien und Hansestadt Hamburg)によって、容易に自らに向けられることのない部隊の保持を重視していた。 この市民軍は「市民警備隊(Bürgerwache)」と呼ばれ、その窮状から「一般に認知され、風刺画に許されたお笑い種( „allgemein anerkannte und in Karikaturen verstattete Lächerlichkeit“)」と言われた、ハンブルク市による応召市民部隊の伝統に無いものであった。後の市民軍の将校団が商人や富裕市民の専門分野だった反面、市民警備隊の士官は「主として中流および低所得層の市民出身」だったのである 。市民軍は、市民警備隊と異なる広範な武装市民団、すなわち民兵団であった。それに対し、市民警備隊は外敵に対する防衛よりも、主として社会の保全に寄与する警察的な役割を引き受けていたのである 。この市民警備隊は1810年まで存続し、フランスによる占領時代(de:Hamburger Franzosenzeit)に占領軍によって解隊された。 「ハンザ義勇軍(Hanseatische Legion)」はハンブルクの一時的な解放者の一人、テッテンボルン(Friedrich Karl von Tettenborn)大佐がナポレオン1世との戦いに赴くべく、ハンブルク市民軍の前身組織と並行する形で創設した義勇部隊であった。同隊は帰還してくるフランス軍に対し、ハンブルク市参事会が抱いた根拠ある恐怖ゆえに、ロシア帝国軍(Imperial Russian Army)に従って戦った。これはハンブルクへ報復する口実を、フランス軍に与えないための処置である。隊を構成したのはハンブルク市民だけではなく、ブレーメンとリューベックの市民も加わっている。 1867年、北ドイツ連邦への参加をもってハンブルクは自衛権を放棄し、ひとまずプロイセン軍(Prussian Army)の二個大隊を迎えねばならなかった。ドイツ連邦軍(Bundesheer (Deutscher Bund))へハンブルクが派遣していた部隊は解隊され、ハンブルク守備隊(都市軍)の下士官と兵は新設の第76「ハンブルク」歩兵連隊(ハンザ都市第2連隊)へ編入された。 これと並んでハンブルク市民軍は1868年、最終的に解隊されるまで一年間存続した。
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