市民軍と連邦軍派遣部隊の関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/22 07:44 UTC 版)
「ハンブルク市民軍」の記事における「市民軍と連邦軍派遣部隊の関係」の解説
二つの全く異なる軍が一つの町に存在する中、相互の緊張は避けられなかった。連邦軍派遣部隊の士官が市民軍の軍事的な質を低く評価していた一方、市民軍の士官は武装した市民としての特別な地位から優越感を抱いていたのである。人間に相応しいとは言えない宿舎に起居し、体罰に晒されていた連邦軍の兵士に対し、市民軍の兵卒までもが同じような感情を持っていた。市民はドイツ連邦軍を市参事会の親衛隊と見ていたので高く評価していなかった反面、市民軍は市民の自由を守る存在として声望を集めていたのである。連邦兵は市民軍に比べてしばしばより乱暴に振る舞い、比較的に銃器の使用も頻繁だったので、市民軍は何よりも1830年9月の騒乱において市民から連邦軍に勝る人気を博した 。 どうあれ連邦派遣部隊によって仕向けられた従属に、市民軍は早期から上手く抵抗している。1823年10月18日の観兵式の際、市の司令官および守備隊長が大佐として、市民軍の指揮官を務めていた少佐より高い階級を理由に双方の部隊の指揮を執ろうとしたことは、「市民軍の士官にとって、とんでもない挑発に思えた。職業軍人の指揮下に入ることは、彼らの身分意識を傷つけたのである。」この問題に対し市民軍が一貫した態度を保った事実は、「市民軍が市政の場においても力を持つ要素の一つであったこと」を裏付けている。 この緊張は1835年、兵役義務が連邦軍派遣部隊にも課せられることで、これが雇用関係の代わりに兵役義務に基づく組織に変わるまで緩まなかったのである。
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