市庁舎の文書館
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「ケルン市歴史文書館」の記事における「市庁舎の文書館」の解説
中世のケルンでは価値ある商品や重要な取引文書が、特別に裏庭に作られたアーチ型天井の倉庫に大量に保管されていた。この保存方法は実業家と市当局の双方で用いられていた。文書には権利、契約、法律集、地図、印章、重要人物の不動産取引による文書があった。市と他地域や国際間の取引が、盛んになり繁栄したので、市当局は増える文書を十分な空間に保管することを計画した。 1406年8月19日、市議会は市庁舎に塔を増設することを議決した。塔は結局1407年から1414年にかけて建設され、市の法令の保管部屋、権利、警備用に様々な目的に提供された。建設を請け負ったのは、ケルンの会計課職員ローラント=フォン・オーデンドルプであった。四角形の上層階2つと八角形の頂上階2つのあるゴシック建築は、この時期のオランダ式鐘楼に幾分似ていて、高さは62メートルになった。葡萄酒貯蔵庫、武器庫、市議会の会議室、頂上階の消防士詰め所、市立文書館のアーチ型の部屋があった。文書はAからXまでの櫃や飾り棚に保管されていた。1396年の市の憲章である「Kölner Verbundbrief」は、王冠の施された櫃に収めて市の誇りとした。1414年から文書館は「Gewulvemeister」(貯蔵庫長官)により運営された。後に運営は市の法務委員会「syndici」に引き継がれた。 1594年、ハンザ同盟のブルッヘ事務所の記録が(当時はアントウェルペンに保管されていた)、ケルン文書館に移された。この記録にはハンザ同盟議会の議定書の写しがあった。1594年の移動に伴いケルン文書館はハンザ同盟に関する歴史的文書を保管する最も重要な場所となり、従って北ドイツ一般の歴史に関してリューベック市立文書館に匹敵するまでになった。 1602年2月27日、市議会は司法と行政に関する書籍を例年行われるフランクフルト・ブックフェアで購入するよう指示した。一連の書籍は、後に市会文書館で保管され、ケルン市立図書館の基礎となった。この「ラートビブリオテーク」(市会文書館)は19世紀初頭にフランスに占領されても大きな損害のなかった数少ないケルン図書館の一つであった。 19世紀初頭にケルンで大聖堂と規範大学が世俗化すると、フランス政府はフランスの公文書をデュッセルドルフの国立公文書館に保管するよう命令した。ケルン市長が19000件の法令など多くの記録をケルン市立文書館に移すよう要求できたのは、1949年になってからであった。
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