工業発展の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 02:49 UTC 版)
「ルイストン (メイン州)」の記事における「工業発展の時代」の解説
ルイストンの歴史の初期は緩りとだが着実に成長した時代だった。しかし1800年代初期から半ばにはアンドロスコッギン川の水力に助けられて工業が勃興するには最適の立地であることが分かった。 1809年、マイケル・リトルが滝の側に大規模な製材所を建設した。これは1814年に放火によって消失したが、後に建て直された。1836年、地元の企業家達、特にリトル家やその友人達が、下記の趣意書でアンドロスコッギン滝ダム・閘門・運河会社を設立した。 ...ダム、閘門、運河、製材所、工場、機械および建物を彼等自身の土地に建設し、また綿糸、毛織物、鉄、鋼および紙をルイストン、ミノーおよびダンビルの町で製造することを目的にする。 この会社は後にルイストン水力会社として再編され、新株の発行でボストンの投資家達を惹き付けた。その中にはトマス・J・ヒル、ライマン・ニコルズ、ジョージ・L・ウォード、アレクサンダー・デウィットおよびベンジャミン・E・ベイツ(ベイツミルやベイツ・カレッジの名前のもと)がいた。彼等はアンドロスコッギン川沿いに運河や幾つかの繊維工場を建設する資金を出した。このことがルイストンの町を小さな農業町からマサチューセッツ州ローウェルをモデルにする繊維の都市へ変革する契機になった。ベイツミルは1850年代から21世紀に到るまでルイストンで最大の雇用主であり続けた。 ルイストンの人口は19世紀に急増した。1849年には鉄道が敷かれた。それと共に運河や工場を建設するために少なからぬアイルランド人労働者が市内に入ってきた。南北戦争のときに繊維に対する需要が高まり、ルイストンは強力な工業基地になった。1870年代からは鉄道がカナダまで延びて、さらに多くのフランス系カナダ人が流入し、それまでの「ヤンキー少女繊維労働者」に取って代わった。それ以来市内人口に占めるフランス系アメリカ人の比率が高くなった。フランス系アメリカ人は中心街に入り、そこは「リトル・カナダ」と呼ばれるようになった。1840年から1890年、ルイストンの人口は1,801人から21,701人にまでなった。この途中の1863年、ルイストンは市政を布いた。 土地のコーラ・シュラインが1891年に組織化され、リスボン通りのマソニック寺院でフリーメイソンの最初の集会が開かれた。この集団は1980年から1910年にサバタス通りに州内最大の友愛会組織本部であるコーラ聖堂を建設した。建築家ジョージ・M・コームズがこのムーア様式建築を設計した。 市の指導者達はポートランドのローマ・カトリック教区が移って来られるように大聖堂の建設を決めた。聖ピーターと聖ポールの教会建築は1905年に始まり、1938年に終わったが、その費用はルイストン住人の数多い少額の献金によるものだった。メイン州では最大のローマ・カトリック教会であり、ルイストンで最も著名な目印になっている。ポートランド教区はルイストンに移らなかったが、この教会は2004年にバシリカになった。主要大都市圏以外では数少ないバシリカの一つになっている。
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