富嶽百景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 18:13 UTC 版)
半紙本全三冊からなり、初編1834年(天保5年)刊行、二編は1835年(天保6年)、三編は刊行年不明。版元は 、初編・二編が西村屋佑蔵ほか。三編は永楽屋東四郎。画号は、前北斎改為一改画狂老人卍。 富岳の祭神、木花開耶姫命(このはなさくやひめ)、孝霊天皇治世の富岳出現から始まり、1707年(宝永4年)の宝永山出現を交えたり、朝鮮通信使(1811年〈文化8年〉か)、富士講登山の様子など、『富岳三十六景』が何処から見たのかに拘ったのに対し、『百景』は「○○の不二」といった題に見るように、気象条件や動感、何処を描いたのか分からない、北斎自身の意向がより明確になっている。より幅広いテーマを取り上げている。 しかし、これらの作品よりも多く取り上げられるのは、尋常ならざる図画への意欲を著した、一・二編での跋文(後書き)である。 己 六才より物の形状を写の癖ありて 半百の此より数々画図を顕すといえども 七十年前画く所は実に取るに足るものなし 七十三才にして稍(やや)禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり 故に八十六才にしては益々進み 九十才にして猶(なお)其(その)奥意を極め 一百歳にして正に神妙ならんか 百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん 願わくは長寿の君子 予言の妄ならざるを見たまふべし 「私は6歳より物の形状を写し取る癖があり、50歳の頃から数々の図画を表した。とは言え、70歳までに描いたものは本当に取るに足らぬものばかりである。(そのような私であるが、)73歳になってさまざまな生き物や草木の生まれと造りをいくらかは知ることができた。ゆえに、86歳になればますます腕は上達し、90歳ともなると奥義を極め、100歳に至っては正に神妙の域に達するであろうか。(そして、)100歳を超えて描く一点は一つの命を得たかのように生きたものとなろう。長寿の神には、このような私の言葉が世迷い言などではないことをご覧いただきたく願いたいものだ。」
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