宝物献納から国有化まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 06:48 UTC 版)
「法隆寺献納宝物」の記事における「宝物献納から国有化まで」の解説
明治時代に入ると、東京や京都で行われた博覧会にならって、奈良でも蜷川式胤(外務大録)、藤井千尋(奈良県権令)らの呼び掛けで、東大寺の大仏殿と回廊を会場として奈良博覧会が実施された。同博覧会は1890年まで15回にわたって開催されたが、うち1875・1876年(明治8・9年)に行われた第1回と第2回の博覧会には正倉院宝物とともに法隆寺の宝物が出品されたのである。1878年の皇室への宝物献納には、このような前史があった。 第2回奈良博覧会終了後、献納予定の宝物は法隆寺へは戻されず、一時、東大寺の尊勝院に保管されていた。1878年に皇室への献納が決まった後、同年3月、宝物は正倉院の宝庫へ移されている。1882年(明治15年)、東京・上野に博物館(東京国立博物館の前身)が移転・開館すると、法隆寺宝物はそちらへ移動された。宝物は農商務省御用掛黒川真頼が運搬担当となって海路横浜へ運ばれ、横浜からは小形船に積み替えて隅田川を上り、陸揚げされた。なお、正倉院から上野への宝物引越しの際に手違いがあり、正倉院伝来の染織品の櫃を法隆寺のものと間違えて運んでしまった。このため、東京国立博物館には本来正倉院に伝来した染織品が収蔵され、逆に正倉院には法隆寺伝来の染織品が残ったまま今日に至っている 。 献納宝物は「御物」、すなわち皇室の所有品であったが、東京国立博物館の前身である帝室博物館に保管され、展示公開されていた。第二次大戦後、GHQの皇室財産の削減指示に従って、皇室財産であった正倉院御物と法隆寺献納御物は国有化され、前者は宮内庁、後者は文部省の管轄となった。法隆寺献納御物については、その大部分が文部省の所管となったが、聖徳太子筆とされる「法華義疏」、一万円紙幣のデザインに使用されたことで著名な「聖徳太子及び二王子像」など皇室にゆかりの深い10件は引き続き「御物」のままとされた。また、法隆寺金堂四天王像の持物であった「七星文銅大刀」と「無文銅大刀」、五重塔の部材の一部であった「覆鉢」、聖霊院本尊聖徳太子像の付属とされる「木製沓」の計4件は、法隆寺の寺宝と不可分のものであるとして、寺に下賜された。法隆寺は、献納宝物は文部省ではなく皇室に献納したものであるとして、宝物全体の返還を申請していたが、交渉の結果、上述の4件のみが寺側の希望に沿って返却された。
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