宝物献納の経緯と事情
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 06:48 UTC 版)
「法隆寺献納宝物」の記事における「宝物献納の経緯と事情」の解説
これらの宝物が法隆寺から皇室に献納されたのは、前述のように1878年のことである。これに先立つ1876年(明治9年)11月、法隆寺は住職千早定朝名で「古器物献備御願」という文書を当時の堺県令・税所篤(さいしょあつし)宛てに提出した。この文書に基づき、当時の日本政府は宮内卿徳大寺実則を中心として宝物の調査を行った。翌々年、1878年2月18日付けで宮内省は宝物の献納を許可することとし、法隆寺には見返りに金一万円が下賜された。1878年当時と21世紀の今日とでは社会・経済状況が異なり、金額について単純には比較できないが、当時の1万円は今日の数億円に匹敵する莫大な金額であった。 献納宝物の中には、聖徳太子ゆかりの品を含む、法隆寺にとってかけがえのない品が多数含まれていた。法隆寺がなぜこれらの貴重な寺宝を手放そうとしたのか、正確なところは不明であるが、堂宇の修繕も思うにまかせなかった当時の法隆寺の経済的苦境が背景にあったとするのが通説である。明治初年の神仏分離・廃仏毀釈の時期を経て、当時の日本の仏教寺院は寺領や権力者の後ろ楯を失い、経済的には極度に困窮していた。広い境内に多くの古建築を有する法隆寺には、それらを維持修繕する経済的基盤もなく、寺宝も散逸の危機にさらされていた。また、当時の政府の宗教政策により、法隆寺は真言宗に所属させられていたが、少しでも早く同宗からの独立を果たしたいというのが寺の悲願であった。そこで、寺宝を散逸させるよりは、日本でもっとも安全確実な保管先である皇室に寺宝を一括献納して永久に伝えるとともに、その見返りに与えられる下賜金によって傷んだ堂宇を修繕し、寺の運営を安定させ、真言宗からの独立を果たそうという寺側の考えから、「宝物献納」という苦渋の決断に至ったものと推測されている。 この時献納された宝物類には大型の仏像等は含まれておらず、伎楽面、仏具類、染織品などの比較的小型軽量なものや、屏風のように持ち運びの容易なものが主体である。これらの宝物類には、江戸時代に江戸や京都で行われた「出開帳」の際に持ち出されたものが再び選択されている例が多い。
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