字は徳豔。南陽郡安衆県の人。 建安年間、張飛に従って入蜀した。建興初年に丞相諸葛亮により主簿に任じられ、参軍・右中郎将に昇進する。諸葛亮が没したとき呉は、魏が衰退に付け込んで蜀を奪い取るのではないかと懼れ、巴丘の守兵を一万人増やした。これは蜀への救援を図り、また魏の侵攻に備えたものである。ところが蜀のほうでも永安の駐留兵を増やして巴丘に対抗しようとした。宗預が使者として呉に赴いたとき孫権は「呉と蜀はいわば家族のようなものだが、なぜ永安の守備兵を増やしたのか」と聞いた。宗預「東の巴丘が増員すれば西の永安も増員します。これは情勢次第なのであって問いただすまでもありますまい」。孫権は大いに笑って宗預の剛直さを認め、鄧芝・費禕に次ぐ敬意をもって愛した。 侍中となり、さらに尚書に昇った。延煕十年(二四七)には屯騎校尉に任じられる。このとき車騎将軍鄧芝が任地の江州から帰っていたが、宗預を嘲って「六十歳になったら軍事に関与しないと『礼記』で定められているのに、君はその歳で初めて兵隊を預かる身となったのはどうしたことか」と言った。宗預は反論して「あなたは七十歳になってもまだ兵隊をお返ししようとしない。六十歳の私が兵隊を預かってもいいでしょう」と答えた。鄧芝の性格は傲岸だったので大将軍費禕でさえ彼に気兼ねしていたが、宗預だけは屈服しなかった。 宗預はまた呉に赴いた。その会見が済むと宗預は「呉は蜀がなければ存在できず、蜀は呉がなければ存在できず、君臣ともども互いに両国を頼みとしています。陛下には充分神慮をお働かせ下さい。私は年老いて病気がちとなり、もう陛下にはお会いすることが出来ません」と言った。孫権は彼の手を握って「君は高齢となり、わしも老衰の身だ。もう二度と会えないだろう」と涙を流して悲しみ、真珠一石を彼に与えた。帰還すると後将軍に昇任し、永安駐屯軍の指揮を委ねられた。のちに任地で征西大将軍を拝命し、関内侯に封じられる。 景耀元年(二五八)、病気が重くなって成都に召し返され、鎮軍大将軍・兗州刺史に任じられた。このころ諸葛瞻が朝廷のことを取り仕切るようになり、彼に挨拶しようと廖化が誘ったが、宗預は「もう我々は七十歳も越えて身に余る栄誉も受けた。もう後は死を待つばかりで、若い連中の機嫌をとることもあるまい」と言って行こうとしなかった。 咸煕元年(二六四)の春、蜀が滅亡したので洛陽に移住させられたが、その途中で病気のため亡くなった。 【参照】諸葛瞻 / 諸葛亮 / 孫権 / 張飛 / 鄧芝 / 費禕 / 廖化 / 安衆侯国 / 永安宮 / 兗州 / 魏 / 呉 / 江州県 / 蜀 / 成都県 / 南陽郡 / 巴丘 / 洛陽県 / 右中郎将 / 関内侯 / 後将軍 / 参軍 / 刺史 / 侍中 / 車騎将軍 / 主簿 / 尚書 / 丞相 / 征西大将軍 / 大将軍 / 鎮軍大将軍 / 屯騎校尉 / 礼記 / 真珠 |