宗春が隠居してからの幕府と名古屋
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「徳川宗春」の記事における「宗春が隠居してからの幕府と名古屋」の解説
宗春が隠居謹慎し、宗勝が8代藩主となると名古屋は、宗春の残した莫大な負債を返済すべく、6代藩主・継友の時代の法令が復活し、質素倹約が奨励される。そのため、名古屋城下の賑わいは火が消えたようになったとされている。 宗春が隠居して15年が経った頃、城下の商人であった小刀屋藤左衛門こと木全雅直が宗春の恩赦を願い出たがこの行動は罪に問われ、篠島に島流しとなった。その後も、歴代の尾張藩家老成瀬家(犬山城主)の当主なども幕府に宗春の恩赦を願い出ていた。また、宗春が隠居後初めて菩提寺の建中寺に先祖の墓参りに出たのは、宗春隠居後26年後の宝暦11年のことであったが、尾張の町内の者たちは宗春のために提灯を並び立てた。 延享2年(1745年)、吉宗は隠居して大御所となり、嫡男の徳川家重が将軍に就く。吉宗の治世後半の幕政を主導し、宗春を謹慎に追い込んでいった松平乗邑は、老中を罷免された。家重は御側御用人として大岡忠光と田沼意次を重用し、それまでの質素倹約による財政緊縮政策が徐々に転換していった。 宝暦10年(1760年)、10代将軍・徳川家治が就任する。家治の時代には、幕府の政策は田沼意次が主導し、重商主義政策へと転換していった。尾張藩では、9代将軍・家重と同年同月の宝暦11年6月に、8代藩主・宗勝が薨去する。そして、9代藩主・徳川宗睦が就くと、名古屋は宗春時代の賑わいを徐々に取り戻していく。宗睦は、尾張藩中興の祖とまで呼ばれるようになる。 隠居後も宗春は、将軍吉宗から拝領した朝鮮人参を下屋敷で大切に育てていたが、のち宗睦は宗春が育ててきた薬草園を用いて、名古屋の医学を大いに発展させる。 10代藩主の徳川斉朝は一橋徳川家から養子に入るが、斉朝の母方は二条家出身であり、九条家を通して4代藩主・吉通の血が流れていた。その斉朝は、宗春を祀る山王社を下屋敷内に創建。通称孚式権現(孚式は宗春の戒名)と呼ばれ、主祭神は宗春、相伝には徳川家康、徳川義直であった。明治維新に至るまで、毎年使者が出たお祭りが行われてきた。宗春没後75年の天保10年(1839年)、11代将軍・徳川家斉の十二男である斉荘が12代藩主に就任する際、宗春の名誉が回復されて従二位権大納言を贈られ、歴代藩主に列せられる。14代藩主・徳川慶恕(慶勝)は、下屋敷の薬草園跡に精林庵(現:名古屋市東区、浄土宗無量寿院)を江戸の下屋敷戸山邸より移して、宗春の菩提を弔った。
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