宗春が隠居してからの幕府と名古屋とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 宗春が隠居してからの幕府と名古屋の意味・解説 

宗春が隠居してからの幕府と名古屋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 00:23 UTC 版)

徳川宗春」の記事における「宗春が隠居してからの幕府と名古屋」の解説

宗春が隠居謹慎し、宗勝が8代藩主となると名古屋は、宗春の残した莫大な負債返済すべく、6代藩主・継友の時代法令復活し質素倹約奨励される。そのため、名古屋城下の賑わい火が消えたようになったとされている。 宗春が隠居して15年経った頃、城下商人であった小刀藤左衛門こと木全雅直が宗春の恩赦願い出たがこの行動は罪に問われ篠島島流しとなったその後も、歴代尾張藩家老成瀬家犬山城主)の当主なども幕府に宗春の恩赦願い出ていた。また、宗春が隠居後初め菩提寺建中寺先祖墓参り出たのは、宗春隠居後26年後の宝暦11年のことであったが、尾張町内の者たちは宗春のために提灯並び立てた延享2年1745年)、吉宗隠居して大御所となり、嫡男徳川家重将軍に就く。吉宗治世後半幕政主導し、宗春を謹慎追い込んでいった松平乗邑は、老中罷免された。家重御側御用人として大岡忠光田沼意次重用しそれまで質素倹約による財政緊縮政策徐々に転換していった。 宝暦10年1760年)、10代将軍徳川家治就任する家治時代には、幕府政策田沼意次主導し重商主義政策へと転換していった。尾張藩では、9代将軍・家重同年同月宝暦11年6月に、8代藩主・宗勝が薨去する。そして、9代藩主徳川宗睦が就くと、名古屋は宗春時代賑わい徐々に取り戻していく。宗睦は、尾張藩中興の祖とまで呼ばれるうになる隠居後も宗春は、将軍吉宗から拝領した朝鮮人参下屋敷大切に育てていたが、のち宗睦は宗春が育ててきた薬草園用いて名古屋医学大い発展させる10代藩主徳川斉朝一橋徳川家から養子に入るが、斉朝の母方二条家出身であり、九条家通して4代藩主・吉通の血が流れていた。その斉朝は、宗春を祀る山王社下屋敷内に創建通称孚式権現(孚式は宗春の戒名)と呼ばれ主祭神は宗春、相伝には徳川家康徳川義直であった明治維新に至るまで、毎年使者出たお祭りが行われてきた。宗春没後75年天保10年1839年)、11代将軍・徳川家斉十二男である斉荘が12藩主就任する際、宗春の名誉が回復され従二位権大納言贈られ歴代藩主に列せられる14藩主徳川慶恕(慶勝)は、下屋敷薬草園跡に精林庵(現:名古屋市東区浄土宗無量寿院)を江戸下屋敷戸山邸より移して、宗春の菩提弔った

※この「宗春が隠居してからの幕府と名古屋」の解説は、「徳川宗春」の解説の一部です。
「宗春が隠居してからの幕府と名古屋」を含む「徳川宗春」の記事については、「徳川宗春」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「宗春が隠居してからの幕府と名古屋」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「宗春が隠居してからの幕府と名古屋」の関連用語

宗春が隠居してからの幕府と名古屋のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



宗春が隠居してからの幕府と名古屋のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの徳川宗春 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS