宍戸転封と伊勢での蟄居
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 07:55 UTC 版)
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍方に立った。会津征伐での山形城主最上義光と上杉景勝との講和は秋田氏と最上氏との密約を察した上杉側によって決裂となり、慶長出羽合戦では小野寺義道を平鹿郡大森城(秋田県横手市大森町)に攻めた。しかしこの際に秋田氏の勢力が増大することを恐れた戸沢氏が厭戦的態度をとったことに加え、最上と上杉側との戦前交渉に失敗し最上を孤立させる一因を秋田氏側が作っていたことなどから、戦後に山形城主最上義光が「実季が裏では小野寺方と通じていて実は東軍方と言えない」と徳川家康に讒言する事態となった。なお、本来の会津征伐の計画では南部氏と秋田氏などの出羽の諸大名は最上義光を大将としてその指揮命令の下に米沢城を攻撃する計画であったが、石田三成の挙兵によって会津征伐が中止になって以降の軍事指揮権について引き続き自分に指揮権があると考える義光と、あくまでも全体の指揮官は家康であって義光の指揮権は会津征伐が中止になった時点で消滅した(個々の大名が家康の許可を得て軍事作戦を行う)と考える実季ら諸大名との間に認識の相違があったと考えられ、義光は伊達政宗に対して戸沢氏ら実季以外の諸将についても軍令違反があるとの認識を示した書状を送っている。 対し実季は弁明し、家康の嫌疑を晴らすことに成功した が、慶長7年(1602年)、家康の命を受けて常陸国宍戸に転封された。これは常陸国の大名佐竹氏の秋田・仙北への入部にともなうものであった が、一方で太閤蔵入地は没収され事実上の減封となった。このとき、姓を秋田から伊駒へと改めている(その後復姓)が、太閤蔵入地とされた旧領が豊臣氏の所領として家康によって没収されたことに対し、実季が不満を抱いたのではないかとも推測される。慶長16年1月15日(1611年2月27日)には、従来自称してきた従五位下秋田城介に正式に補任された。 宍戸藩主となった実季は、慶長19年(1614年)の大坂夏の陣では豊臣方先鋒隊らと激突したものの大損害を出し、敗北を喫した。 寛永7年(1630年)、元和偃武後も戦国大名らしい気骨が横溢していることが幕府の忌み嫌うところとなり、突如伊勢国朝熊(三重県伊勢市朝熊町)へ蟄居を命じられた。嫡男の俊季との不和説や、従来からの檜山系・湊系による家臣間の対立が背後にあったのではないかとする見解もあるが、詳細は不明である。なお、秋田氏は俊季の幕府への忠節と、俊季の母 が大御所秀忠の正室崇源院の従姉妹にあたることも幸いして俊季の家督継承が認められ、正保2年(1645年)陸奥三春に5万5,000石移封すると以後幕末まで同地で存続した。 寛永7年以降約30年にわたり、実季は伊勢朝熊の永松寺草庵にて蟄居生活を余儀なくされた。万治2年(1660年)、同地にて死去した。享年85。朝熊永松寺には、実季の用いた食器などの日用品が現在も残されている。
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