宇文部・段部との抗争と東晋との修好
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「慕容廆」の記事における「宇文部・段部との抗争と東晋との修好」の解説
322年12月、段部は長年の内部抗争を経て段末波により統一されたが、未だに防備が整っていなかった。慕容廆はこれを好機とみて、慕容皝を令支(段部の本拠地)に侵攻させると、慕容皝は千家余りの民と名馬や宝物を略奪してから帰還した。 323年4月、後趙の君主石勒が慕容部へ使者を派遣し、慕容廆と同盟を求めた。慕容廆は東晋を奉じていたのでこれを拒絶し、使者を捕らえると東晋朝廷に送った。石勒はこれを知ると激怒した。 324年7月、東晋より使者が到来し、5千戸を加増されると共に、その苦労を労われた。 325年1月、石勒は宇文部の大人宇文乞得亀に官職を与えると、慕容廆を攻撃させた。慕容廆は慕容皝を総大将として迎撃を命じると共に、遼東相裴嶷を右部都督に任じて、協力に応じてくれた拓跋部と段部の兵を指揮させて軍の右翼とし、慕容仁を平郭より呼び寄せて柏林に向かわせて軍の左翼とした。宇文乞得亀は澆水に布陣して砦を固く守り、兄の宇文悉跋堆に柏林の慕容仁を攻めさせた。慕容仁はこれを返り討ちにして宇文悉跋堆を斬り殺すと、その兵を尽く捕虜とした。さらに勝ちに乗じると、慕容皝と合流して宇文乞得亀の本隊に攻撃を仕掛けて大勝した。これにより宇文部軍は崩壊して宇文乞得亀は軍を捨てて逃亡を図ったので、慕容仁は慕容皝と共に宇文部の都城へ侵入した。同時に、軽騎兵を派遣して宇文乞得亀を追撃させ、三百里余り追い立てた所で引き返した。この戦勝により重宝を尽く獲得し、畜産は百万を数えた。また、帰順した人民は数万にも上った。 3月、段部の大人段末波が没すると、弟の段牙が後を継いだ。これ以降、慕容廆は段牙と修好を結ぶようになった。 11月、慕容廆は段牙へ建議して遷都を進めると、段牙はこれに同意して令支から都を移した。だが、これに部族の民は大いに不満を抱き、12月には段遼が部族の民を率いて段牙を殺害し位を簒奪した。 326年9月、東晋より使者が到来し、侍中を加えられ、位は特進となり、それ以外の官職はこれまで通りとされた。 327年2月、慕容廆は東晋へ使者を派遣し、爵位については固辞すると告げたが、朝廷は認めなかった。 330年春、東晋よりまたも使者が到来し、開府儀同三司を加えられたが、これを固辞して受けなかった。
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