孤児院の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/20 06:01 UTC 版)
孤児院の状況は、1982年、チャウシェスクが対外債務返済のために飢餓輸出の体制を敷くと悪化した。景気後退に伴い、電力や暖房は止まることが多くなり、食料は不足した。当時ブカレストに滞在していたアメリカ領事、ヴァージニア・カーソン・ヤングは、子供たちの多くは正確には孤児ではなく、ナタリストとしての要求が押しつけられた結果、大家族を養えなくなった親が預けるケースが多かったことを指摘している。子供を孤児院に預けた親の多くは、子供が成長したら迎えに行くつもりであった。孤児は、ロマ(ジプシー)の割合が高く、労働力として十分な年齢まで成長すると、再び関係を主張する親が多かった。 孤児院の状況は施設によって違っていたが、特に障害児を収容する施設は劣悪であった。その1つ、シレトの児童精神病院では、薬や洗浄設備が不足しており、児童の精神的・性的虐待が相次いでいると報告された。また、シゲトゥ・マルマツィエイにあった病気の子供たちのための施設では、子供がベッドに縛り付けられていたり、衣服で危険なレベルにまで拘束されていたりした。スタッフが服を着せなかったために、子供たちは一日中裸で過ごしたり、自分の糞尿にまみれたりするケースもみられた。職員は適切な訓練を受けておらず、子供の虐待も相次いだ。風呂には汚い水が使われ、一度に3人が放り込まれた。スタッフから虐待を受けたことが影響して、年上の子供が年下の子供を虐めるようになった。また、女子であっても子供は全員頭髪を剃っていたため、お互いを判別することが難しかった。多くの子供たちは発育が遅れ、どうやって生きていくかを知らなかった。栄養不足のため、軽い病気や怪我で命を落とす子供が多かったほか、白内障や貧血、さらに飢え死にも多発した。骨折が正しく治療されなかった結果、手足が変形するなど身体的障害を負った者もいる。 孤児院の子供のなかには、消毒をしていない医療機器を用いたためにエイズに感染する者も多かった。基本的な物資の不足する孤児院に暮らすこと自体が苦痛であったが、子供たちは通常、3歳と6歳に達するとそれぞれ施設を移らなければならない決まりで、これが事前に何の知らせもなく行われた。また、労働省により「回復不能」と認定された子供たちは「非生産的」とみなされ、最もひどい状況に置かれた。チャウシェスク政権崩壊後、孤児院のあるスタッフは、子供たちに対する体罰が「適切なしつけ」として奨励されていたとし、子供たちを殴打しない職員は弱いとみなされていたと証言している。
※この「孤児院の状況」の解説は、「ルーマニアの孤児」の解説の一部です。
「孤児院の状況」を含む「ルーマニアの孤児」の記事については、「ルーマニアの孤児」の概要を参照ください。
- 孤児院の状況のページへのリンク