孤児・浮浪児
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 15:22 UTC 版)
飢饉で親が死ぬと、子供は孤児となり、浮浪児(ストリートチルドレン)となった。 1933年3月、ポルタヴァ駅の貨車に群がっていた浮浪児たちは貨車に詰め込まれたあと、代用コーヒーとわずかなパンを与えられるとバタバタ死亡したので埋葬された。こうしたことは当時、普通のことであったと駅の労働者は語っている。 ある男は、妻が子供に食事を与えるのを咎め、隣人が子供にミルクを与えるのをみると、隣家は食料を隠しているようだと共産党に告げ口をするなどしたが、やがてこの男もその子供も死んだ。 ウクライナ中部のポルタヴァ州チョルヌーヒでは、元赤軍兵士から頼まれて子供4人を預かった地区長は、子供たちを孤児院に預けたが、うち2人はすぐに死に、父親も数日後自殺した。ポルタヴァ市では、子供の肉を解体する処理場をGPUが発見した 浮浪児は鳥、魚、猫などを捕らえて食べ、不良少年グループをつくり、泥棒となり、犯罪集団ウールカに加わった。1921-22年の飢饉のときには、ヴォルガ川流域だけでも500万の子供が救済をうけ、1923年には100万が救済された。 1934年春、6人の子供がいた家庭では、残りの利口な子供3人のために三人が殺された。両親が死亡した子供たちもどうすることもできず、ある家の14歳の少女と2歳の弟は、鮭にように床を這い、体はもはや人間とは思えないほど痩せていた。1934年6月、クリジフカとブジシチャの草むらで10歳と7歳の子供が発見されたが、引き取り手は誰もおらず、野良猫のように死んでいった。 共産党は、浮浪児が増えているのはクラークの策略であり、クラークは子供たちを都市に送り込むために都市の児童施設が満杯になっているとし、農村の労働者たちは、クラークと戦うどころか、それに共感さえ覚えていると批判した。当時、都市のホームレスの子供の75%が農村出身だった。また、教育人民委員会のM.S.エプシュタインはホームレスの急増は資本主義国の特徴で、アメリカでは20万人のホームレスがおり、小年感化院、収容所などで子供は虐待されており、それに比較すればソ連は立派に対応していると報告した。 ウリャニフカでは「子供の収容所」が設置され、骨のようになった2歳から12歳までの児童が収容されていた。「誰が子供の世話をするのか」と教育人民委員が質問すると、共産党の役人は「党と政府です」と回答したが、毎朝、子供の死体が移送された。死体を運ぶトラックから、まだ生存していた少女が発見されたこともあり、チュルヌーヒの「子供の家」で預かった。 1935年5月31日、浮浪児対策法が出され、NKVD管理下で隔離所が設置された。 北カフカースのマイコプ近くのヴェロヴェシチェンスク子供受刑者収容所では、児童が16歳になると、チェキストとして訓練を受けるために内務人民委員部の特別学校に送られた。。
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