孤児移送作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/12 05:31 UTC 版)
「オペレーション・ベビーリフト」の記事における「孤児移送作戦」の解説
ベトナム戦争が終わりに近づくにつれて、南ベトナム人の孤児とアメリカ人家庭との養子縁組が増加した。1975年3月にダナンが陥落してサイゴンにも戦火が迫ると、数十万の市民が脱出を開始した。 こうした中で、戦争で親を亡くしたベトナム人孤児たちの生命も気遣われ、国際養子縁組を進める慈善団体である「ホルト」(Holt International Children's Services) や「フレンド・オブ・チルドレン・オブ・ベトナム」(FCVN)、「フレンズ・フォー・オール・チルドレン」(Friends For All Children, FFAC)、「カトリック救援奉仕事業」、「国際社会奉仕事業」、「インターナショナル・オーファンズ」(Childhelp)、「パール・バック財団」などが、アメリカ政府と軍に孤児たちの退避のための要請を行った。 1975年4月3日、当時の大統領ジェラルド・フォードは、ロッキードC-5ギャラクシー輸送機による30回のフライトで孤児たちを避難させるという「オペレーション・ベビーリフト」の開始を声明した。しかし、翌4月4日に飛び立った第1便は事故を起こし、助かるはずであった幼児や子供が大勢亡くなった。この事故の結果、この作戦はアメリカ内外の関心と同情、そして大きな非難を集めることになった。にもかかわらず作戦はその後も継続され、北ベトナム軍の攻撃によりタンソンニャット基地が使用不可能になる4月26日まで継続された。 北ベトナム政府はこの作戦について「組織的な幼児誘拐である」と非難したほか、アメリカや西側諸国においても、あわただしい異国への「避難」が、孤児たちにとって最善であったのかという点が問題にされることもある。「養子」の中には書類が不備のものもあり、のちに実の親や親族との間で親権をめぐる争いが生じたケースもあるなど、養子縁組団体の活動には当時から議論の的ともなっていた。 「オペレーション・ベビーリフト」の結果、戦禍の中から3,300人以上の孤児が南ベトナムから運び出され、アメリカやオーストラリアなどの西側諸国に養子として迎えられることになった。
※この「孤児移送作戦」の解説は、「オペレーション・ベビーリフト」の解説の一部です。
「孤児移送作戦」を含む「オペレーション・ベビーリフト」の記事については、「オペレーション・ベビーリフト」の概要を参照ください。
- 孤児移送作戦のページへのリンク