奪取された小さな砦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:32 UTC 版)
「ポンティアック戦争」の記事における「奪取された小さな砦」の解説
イギリス軍の他の出先がポンティアックによるデトロイト砦の包囲について知る前に、5月16日から6月2日にかけての一連の戦いで、インディアン部族は5つの小さな砦を奪取した。最初に墜ちたのはエリー湖岸の小要塞に過ぎなかったサンダスキー砦であった。この砦は1761年にアマースト将軍の命令で作られたが、土地のワイアンドット族が1762年に「直ぐに焼き払ってしまうぞ」と砦の指揮官に脅しをかけていた。5月16日、ワイアンドット族の集団が協議集会を開く風を装って砦の中に入った。これは9日前にデトロイト砦で採って失敗した戦術と同じであった。ワイアンドット族は指揮官を捕まえ、他の15名の兵士を殺害した。砦にいた交易業者も殺され、戦争の初期に殺された約100名の交易業者のうち最初のものとなった。死体は頭皮を剥がれ、砦は1年前にワイアンドット族が警告したように焼き払われた。セントジョセフ砦(今日のミシガン州ナイルズ)は5月25日にサンダスキー砦と同じやり方で奪取された。指揮官はポタワトミ族に捕まり15名の守備兵の大半は即座に殺された。マイアミ砦(今日のインディアナ州フォートウェイン市)が3番目に墜ちた砦であった。5月27日、指揮官がインディアンの女性に砦の外に誘い出されたところをマイアミ族に銃で撃たれて死んだ。砦は包囲され9名の守備兵は降伏した。 イリノイ郡では、ウィーアテノン砦(今日のインディアナ州ラファイエットから南西に約5マイル (8 km)のところ)が6月1日にウェア族、キカプー族およびマスクーテン族によって奪取された。守備兵は協議のためということで砦の外に誘い出され、20名全員が流血なしで捕虜となった。ウィーアテノン砦近くのインディアン部族はイギリス軍守備隊と良好な関係にあったが、デトロイトのポンティアックのところから来た使者が彼らを攻撃するよう呼びかけた。戦士達は砦の指揮官に対し「他の部族にこうするように強制された」と言って謝った。他の砦とは対照的にウィーアテノン砦の捕虜は殺されなかった。 5番目の砦ミチリマキナック砦(今日のミシガン州マッキノー市)は、急襲によって奪取された最大の砦であった。6月2日、オジブワ族が訪問していたソーク族と共にスティックボール(ラクロスの前身)の試合をお膳立てした。前にもそのようなことがあったので、兵士達は試合を見ていた。ボールが打たれて砦の開いている門から飛び込んだ。両軍の選手が雪崩れ込みインディアンの女性によって砦の中に密かに持ち込まれていた武器を手渡された。35名の守備兵のうち約15名が戦闘で殺され、他にも5名が拷問を受けて殺された。 6月の中旬には第二波の攻撃でオハイオ軍の3つの砦が墜とされた。ベナンゴ砦(今日のペンシルベニア州フランクリンの近く)はセネカ族に6月16日頃に墜とされた。指揮官を除き12名の守備兵全員が即座に殺された。その指揮官もセネカ族の憤懣を書き記すことを強いられた後に火炙りの刑に処せられた。ル・ビューフ砦(今日のペンシルベニア州ウォーターフォード)は6月18日におそらくベナンゴ砦を破壊した者と同じセネカ族に襲われた。12名の守備兵の大半はピット砦に逃れた。 陥落した砦では8番目で最後となったプレスクアイル砦(今日のペンシルベニア州エリー)はおよそ250名のオタワ族、オジブワ族、ワイアンドット族およびセネカ族に6月19日の夜、取り囲まれた。2日間は持ち堪えたものの、60名の守備隊のうち約30名がピット砦に戻るという条件で降伏した。しかし、大半は砦を出た後で殺された。
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