太陽暦への切替え
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 08:45 UTC 版)
古代ローマの暦は当初、春を年初として朔望月に基づく10か月を定め、あとは適当に日数を加えて一年とする運用をしていたが、紀元前8世紀の頃には一年を12か月355日とする太陰太陽暦が用いられるようになった。しかし毎年コンスルが交代する共和政のローマ社会では、政治家や神官が暦を政争の具とし、日にちや閏月の挿入を恣意的に繰り返した。その結果、ユリウス・カエサルがローマで権力を手にした頃には、暦が実際の季節から3か月もずれるという事態になっていた。そこでカエサルは紀元前46年、天文学者ソシゲネスの意見に従ってこの年の日数を445日にまで引き伸ばし、翌紀元前45年から暦を朔望月に拠らない太陽暦に移行させた。これがユリウス暦である。この暦は一年を約365日とし、4年に1度、二月に閏日を入れるなど、現行で使われる太陽暦の原型となるものであった。 その後、ローマ帝国領で発展したキリスト教でもユリウス暦を採用することになった。しかし新約聖書に記されるイエス・キリスト復活の日は、太陰太陽暦であるユダヤ暦に基づくので、キリスト教最大の祝祭である復活祭を行うためには、太陽暦のユリウス暦だけではどうしても不足があった。そこでユリウス暦をもとに春分の日を3月21日に「固定」した上で、月の朔望を考慮し春分直後の満月の日を計算することにより、復活祭の日付を算出した。この計算方法をエパクトと言い、教会暦の不可欠な要素として組み込まざるを得なかった。その意味で現在のグレゴリオ暦に至るヨーロッパの暦は、宗教面では太陽暦と太陰太陽暦の二重構造となっている。 なおユリウス暦は中世ヨーロッパの時代に至って暦法に問題ありとされ、1582年、ローマ教皇グレゴリオ13世の名のもとに改暦が行われた。これがグレゴリオ暦であるが、当時プロテスタントを信仰する国ではカトリックに対する反発から、グレゴリオ暦をなかなか受け入れようとはせず、イギリスもグレゴリオ暦に改めたのは1752年にもなってからであった。これは正教会が布教を行う地域でも同様で、ロシアやルーマニアでは1910年代まで、ギリシャは1924年までユリウス暦を用いている。 こうしてヨーロッパの地域ではユダヤ暦を除いて太陽暦が広く用いられることになったが、東アジア地域では近代に至るまで閏月の入る太陰太陽暦が公式に使い続けられた。
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