天文館の映画館
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/22 15:56 UTC 版)
鹿児島市の繁華街である天文館は戦前から映画館街として知られていた。1945年(昭和20年)6月17日の鹿児島大空襲で鹿児島市の映画館はすべて焼失したが、1947年(昭和22年)までには映画館5館が立ち並ぶ映画館街が天文館に復活した。1953年(昭和28年)の鹿児島県には42館の映画館があり、鹿児島市にあった第一映劇、第一小劇、セントラル映劇(ここまで3館は東千石町)、高島映劇、日東映劇、銀座映劇、銀映座、国際映劇、日本劇場(ここまで6館は山之口町)の9館はすべて天文館にあった。同年8月には国鉄西鹿児島駅付近に、戦後初めて甲突川を越えた位置(南側)に映画館(新世界映劇)が開館している。 全国の映画館数がピークを迎えたのは1960年(昭和35年)である。この年の鹿児島県には104館の映画館が、鹿児島市には26館があり、天文館には26館のうち16館が存在した。京都造形芸術大学教授で映画評論家の寺脇研は、鹿児島で過ごしたラ・サール高校時代に天文館の映画館に入り浸って、年間200本近い日本映画を観ていた。 テレビの普及や住宅地の郊外化にともなって映画業界は衰退していった。1972年度の鹿児島県の映画館数は最盛期の約半分となり、鹿児島県の映画人口は最盛期の12%にまで減少した。1999年(平成11年)時点では鹿児島県内で映画館が存在する自治体は鹿児島市のみであった。同時期の天文館にはシネシティ文化(5スクリーン)、鹿児島東宝(3スクリーン)、鹿児島松竹タカシマ(2スクリーン)、鹿児島東映(単独館)、旭シネマ(単独館)の5施設計12スクリーンがあった。
※この「天文館の映画館」の解説は、「ガーデンズシネマ」の解説の一部です。
「天文館の映画館」を含む「ガーデンズシネマ」の記事については、「ガーデンズシネマ」の概要を参照ください。
天文館の映画館
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/22 22:50 UTC 版)
「天文館シネマパラダイス」の記事における「天文館の映画館」の解説
鹿児島市の繁華街である天文館は戦前から映画館街として知られていた。1945年(昭和20年)6月17日の鹿児島大空襲で鹿児島市の映画館はすべて焼失したが、1947年(昭和22年)までには映画館5館が立ち並ぶ映画館街が天文館に復活した。1953年(昭和28年)の鹿児島県には42館の映画館があり、鹿児島市にあった第一映劇、第一小劇、セントラル映劇(ここまで3館は東千石町)、高島映劇、日東映劇、銀座映劇、銀映座、国際映劇、日本劇場(ここまで6館は山之口町)の9館はすべて天文館にあった。同年8月には国鉄西鹿児島駅付近に、戦後初めて甲突川を越えた位置(南側)に映画館(新世界映劇)が開館している。 全国の映画館数がピークを迎えたのは1960年(昭和35年)である。この年の鹿児島県には104館の映画館が、鹿児島市には26館があり、天文館には26館のうち16館が存在した。京都造形芸術大学教授で映画評論家の寺脇研は、鹿児島で過ごしたラ・サール高校時代に天文館の映画館に入り浸って、年間200本近い日本映画を観ていた。 テレビの普及や住宅地の郊外化にともなって映画業界は衰退していった。1972年度の鹿児島県の映画館数は最盛期の約半分となり、鹿児島県の映画人口は最盛期の12%にまで減少した。1999年(平成11年)時点では鹿児島県内で映画館が存在する自治体は鹿児島市のみであった。同時期の天文館にはシネシティ文化(5スクリーン)、鹿児島東宝(3スクリーン)、鹿児島松竹タカシマ(2スクリーン)、鹿児島東映(単独館)、旭シネマ(単独館)の5施設計12スクリーンがあった。
※この「天文館の映画館」の解説は、「天文館シネマパラダイス」の解説の一部です。
「天文館の映画館」を含む「天文館シネマパラダイス」の記事については、「天文館シネマパラダイス」の概要を参照ください。
- 天文館の映画館のページへのリンク