天下三分
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 13:46 UTC 版)
建安16年(211年)、蜀の主である劉璋が五斗米道の張魯に対抗するために、劉備に対し兵を益州に入れて欲しいと要請してきた。ところが、要請の使者である張松と法正は既に劉璋を見限っており、劉備に対して蜀を獲ってしまうように勧めた。龐統もこの話に乗るように進言し、劉備はこれを受け入れた。 関羽・張飛・諸葛亮らを留守に残し、劉備は自ら龐統・黄忠・法正と数万人の兵を引き連れて、蜀へ赴いた。蜀に入ると劉璋によって歓待を受け、宴が開かれた。龐統はこの機会に劉璋を捕らえて一気に蜀を手に入れるように進言したが、劉備は「今はその状況ではない(これは重大な事であるから、あわててはいけない、他国に入ったばかりで恩愛や信義はまだあらわれていない、それはいかん)」と述べて退けた。劉璋は劉備に兵や戦車や武器や鎧などを貸し、劉備軍は総勢3万人となった。 その後、劉備は兵を率いて前線の葭萌へ駐屯し、この地で張魯を討伐するよりも住民たちの人心を収攬することに勤め、来たるべく蜀占領に向けて準備を整えた。建安17年(212年)、曹操が孫権を攻め、劉備に対して救援要請が来た。劉備たちはこれを兵力移動の隠れ蓑にして劉璋から付けられた監視役の高沛と楊懐の二将を謀殺して、葭萌城を霍峻に守らせ、蜀の首都成都へと向けて侵攻を始めた(劉備の入蜀)。諸葛亮・張飛・趙雲らも長江をさかのぼり、益州の郡県を攻略した。関羽は本拠地の押さえとして引き続き荊州に残った。 劉備本軍は涪城を占拠し、冷苞・劉璝・張任・鄧賢を破り、綿竹の総指揮官である李厳を降伏させるなど、初めは順調に進んでいたものの、劉循・張任が守る雒城にて頑強な抵抗に合い、1年もの長い包囲戦を行なわざるを得なかった。この戦闘中に龐統が流れ矢に当たって戦死した。劉備が龐統に賛美と慨嘆の言葉をもらした際に、張存はかねてより龐統を買っていなかったので、「龐統は忠義を尽くして惜しむべき人物でありますが、しかし君子の道に反しておりました」と述べた。劉備は腹を立て、「龐統は身を殺して仁を成し遂げたのだ。お前はそれを悪いと申すか」と言って、張存を免官にした。張存はほどなく病没した。そして、長い抗城戦の末雒を落とすことに成功し、荊州から進軍してきた諸葛亮や張飛らも加わり成都を包囲した。馬超は劉備が成都を包囲したと聞くや、密書を送って降伏を願い出た。劉備は李恢を漢中に派遣して馬超を味方に引き入れさせた。馬超はかくて命令に従った。劉備は馬超が到着したと聞いて喜び、「私は益州を手に入れたぞ」といった。使者をやって馬超を迎えさせると、馬超は軍兵を率いて、まっすぐに城下に到着した。劉璋は「わしはもはや領民を苦しめたくない」と言い、降伏した。こうして劉備の蜀の乗っ取りは功を成した。これにより天下三分の形勢がほぼ定まった。
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