大正末期〜昭和 本格的海外登山の始まり/組織の改編・体制の整備
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日本初の本格的な海外登山として位置付けられているのが、1925年(大正14年)、慶應義塾大学山岳部OBおよび学習院大学山岳部OBらをメンバーとする日本山岳会登山隊(槇有恒、三田幸夫=11代会長ら)によるカナディアン・ロッキーのアルバータ山への初登頂である。1936年(昭和11年)には立教大学隊(隊長堀田弥一=日本山岳会会員)がガルワール・ヒマラヤのナンダ・コートに初登頂を果たしている。 日本山岳会の組織・体制も次第に整備されていく。創立以来、事務所は個人宅に置かれ住所も点々としていたが、1929年(昭和4年)に虎ノ門不二屋ビルに図書室を兼ねたクラブルームを設け(虎ノ門ルーム)、1933年(昭和8年)には事務所も同じ場所に置いた。1930年(昭和5年)から「山日記」(登山上の注意、読み物、日記欄、調査事項などから構成されたポケットサイズに日記帳のようなもの。現在、雑誌『山と溪谷』の付録「山の便利帳」として引き継がれている)、「会報」(現在の「山」)を発行している。1931年(昭和6年)、これまでの「規則」を「会則」に変更し、会長・理事制によって運営するように体制を改め、初代会長には小島久太が就任した。1941年(昭和16年)1月には社団法人に組織を変更。1935年(昭和10年)、創立30周年記念事業として、記念講演会、山岳図書展覧会などを催した。1937年(昭和12年)、上高地にウェストンのレリーフを設置したが、太平洋戦争開始の翌年1942年(昭和17年)には敵国イギリスの人物を顕彰することが適わず、取り外された。1945年/(昭和20年)5月の空襲で、虎ノ門ルームはそこに収められていた山岳関係の資料・図書とともに焼失してしまった。 戦時中ではあったが、会員数は増え続け、1942年(昭和17年)には1000名を超えた。
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