大杉一家「死因鑑定書」
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戦後見つかった3人の死因鑑定書は、当時遺体の引き上げにも立会って、20時間かけて解剖を行った陸軍衛戍病院(現国立国際医療研究センター)勤務の外科田中隆一軍医本人によって作成されたもので、鷹津軍医名義で提出されたものの控えであった。彼は退役して開業後、40歳で再召集されて中国戦線で戦没したが、1976年(昭和51年)8月に自宅に保存されていた遺品の中から他の資料と共に再発見された。以下はその抜粋の要約。 男性屍女性屍小児屍発見場所死体は3体とも東京憲兵隊本部構内東北隅弾薬庫北側中央、弾薬庫の土台石を取り除いた廃井戸の中、地面から4尺下の場所にあった。井水は甚だ不潔な濁水であった。3死体は菰包みにされ麻縄で縛られていた。 発見時の遺体晒木綿の越中褌を着用 全裸 全裸 遺体の身長5尺4寸1分(163.9cm) 5尺(151.5cm) 3尺9寸2分(118.7cm) 遺体の状況顔面は全体的に紫藍色で浮腫状に膨張。両眼共に閉じ、上眼瞼、特に左側は暗赤色で皮下に溢血があった。(窒息死の証拠)両眼球は突出し、角膜は暗赤色で高度に混濁して瞳孔は見えなかった。舌は歯列より1厘出ていた。 顔面は高度に紫藍色で、死後の腐敗により汚染され青色になっていて、浮腫状に膨張。両眼は閉じ、眼球は突出。舌は歯列より0.5厘出ていた。 胸骨完全骨折。前胸部にすこぶる強大な外力による傷。蹴る、踏みつけるなど。絶命前に受けたもので、直接の死因ではないが、死を容易にしたのは確実。 その他の特徴 頭髪は長く、後頭部で結髪。子宮肥大。産褥期にあり、出産後3週間経過と推定。 死因鑑定書の内容は、「死因は窒息、手段は前頸部を絞圧した」扼殺であるという点は公判で採用されたものだが、遺体の状況は調書や軍法会議で甘粕が語った殺害状況とは矛盾するもので、激しい暴行を受けていたことを示すものだった。
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