大師流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/10 06:35 UTC 版)
書で名高い大師ということで、空海の書を祖とした書流を大師流と称し、多くの人が空海の書を尊重した。例えば、後宇多天皇は、空海の熱狂的な崇拝者であり、その皇子後醍醐天皇も父の感化で空海の書に関心を寄せている。またその書を求めようとする人々もたくさんおり、豊臣秀次が『風信帖』の1通を所望して切り取ったり、後水尾天皇も『狸毛筆奉献表』の3行(41字)を切り取り宮中に留め置いたことなどがある。 大師流について述べた『弘法大師書流系図』というものがあり、これによれば、空海が渡唐の際、韓方明から後漢の蔡邕以来の書法を授かり、帰朝ののち、嵯峨天皇等にこれを伝え、そして賀茂県主藤木敦直(1582年(天正10年) - 1649年(慶安2年))からその子孫に伝来したのだという。しかし、これはかなり意図的な流れで、賀茂一流の人々が自分の書を権威あるものに見せるため、創作したものであることは疑いない。しかし現実に大師流は存在する。そして事実上の祖、藤木敦直が甲斐守を称するので、甲斐流ともいわれ、また賀茂神社の県主でもあるため、賀茂流ともいわれる。藤木敦直の師は、先の『弘法大師書流系図』などから、飯河秋共、伯父の賀茂成定であることが知られ、敦直は、後水尾天皇から書博士の称号を賜った。 その他の大師流の書き手といわれるのは、岡本宣就(1575年(天正3年) - 1657年(明暦3年))、狩野探幽、春深(高野山の僧で探幽の師)、寺田無禅(生年不詳 - 1691年(元禄4年))、荒木素白(1600年(慶長5年) - 1675年(延宝3年))、北向雲竹(1632年(寛永9年) - 1703年(元禄16年))、鳥山巽甫(生年不詳 - 1685年(貞享2年))、佐々木志津磨(1623年(元和9年) - 1695年(元禄8年))などがいる。そして江戸時代には大師流はかなりの流行を見せた。大師流は結局、空海の書に基礎を置いているが、そのうちでも、『崔子玉座右銘』、『七祖像賛』、『益田池碑銘』など、装飾性の強い書をさらに強調する特色がある。 その他の書流一覧書流開祖系列時期大師流 空海 晋・唐の書 平安初期から 有栖川流 職仁親王 霊元天皇 江戸後期から
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