大宰相
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「アレクセイ・ベストゥージェフ=リューミン」の記事における「大宰相」の解説
権力基盤が崩れたかに見えたベストゥージェフであったが、思いもよらず早くも救いの手が差し伸べられた。ピョートル大帝の第2皇女エリザヴェータ・ペトローヴナのクーデター(ロシア語版)である。1741年12月6日、女帝に即位したエリザヴェータはベストゥージェフを召還し、副宰相に任じた。こうしてエリザヴェータの治世20年間にわたりベストゥージェフは、ロシアの外交を担うことになる。 ベストゥージェフの外交方針は反フランスであった。露仏両国はオスマン帝国、スウェーデン、ポーランドをめぐり利害が衝突した。また、フリードリヒ大王統治下のプロイセンも台頭著しくロシアにとって新たな脅威となった。ベストゥージェフは、英国とオーストリアに接近し、自然同盟を形成した。ベストゥージェフはこれにザクセン公国を加え四国同盟を構築し、普仏同盟に対抗した。しかし英墺への接近は同時にベストゥージェフの権力基盤を不安定化させた。エリザヴェータはオーストリアに対して個人的な嫌悪を抱いていた上、ロシアの宮廷には親仏、親普派の勢力も存在し、ベストゥージェフを失脚させるために多くの陰謀が企てられた。ベストゥージェフは兄ミハイルの支援も受けながら、反対派の陰謀を退けつつ、段階的に外交方針を実行していった。 1741年、ロシアの皇位継承に絡む内紛に乗じて、スウェーデンがカレリアに侵攻する。ロシアは20万人の大軍をフィンランドに派遣し、スウェーデン軍と対峙する。1742年12月11日、ベストゥージェフは英露攻守同盟を締結することに成功し、フランスの仲介を拒絶した。ロシア軍はスウェーデン軍を撃破したこともあり、ベストゥージェフは1743年にオーボ(トゥルク)で開催された講和会議でフィンランド全土の割譲を要求した。しかし、ロシア国内の親仏派はエリザヴェータ女帝を動かし、ロマノフ家と姻戚関係にあるホルシュタイン=ゴットルプ家のアドルフ・フレドリクをフレドリク1世の後継のスウェーデン王に推戴した。結局、ロシアはカレリアを獲得するに止まった。 ベストゥージェフは、1743年3月の普露攻守同盟締結を防ぐことができなかった。しかし、一方でベストゥージェフはプロイセンに対して、侵略したシュレージエンの保障を同盟条約から除外することには成功し、同盟の実質的な重要性を奪った。また、ベストゥージェフのロシア宮廷内における政治工作によってフリードリヒ大王(ベストゥージェフは、ロシアにとってプロイセンはフランスよりも危険であると認識していた)の信用を確実に失墜させていった。ベストゥージェフはブレスラウ条約を締結し、オーストリアとの同盟への道を開いた。 ホルシュタイン派、それを援助する親仏派によるナターリア・ロプーヒナをめぐる陰謀は、オーストリア公使が幽閉されている廃帝イヴァン6世の復位を計画したとエリザヴェータに疑心暗鬼を生じさせることに成功した。1743年フランスからラ・シェタルディ侯が派遣された。ラ・シェタルディはロシア宮廷内の親仏派と結びついて一大勢力を形成した。エリザヴェータの皇位継承者となったカール・ペーター・ウルリヒ(ピョートル・フョードロヴィチ大公、後の皇帝ピョートル3世)が、親仏派の主導でホルシュタイン=ゴットルプ家の縁戚に当たるゾフィー・アウグスタ・フリーデリケ・フォン・アンハルト=ツェルプスト(エカテリーナ・アレクセーエヴナ)との婚約が成立し、ベストゥージェフの立場は最も危機に瀕した。ゾフィー公女の母ヨハンナ・エリーザベト(アドルフ・フレドリクの妹)はロシアへの接近とそのために反プロイセンの姿勢を取るベストゥージェフの失脚を目論むフリードリヒ大王の意を受けていた。しかし、ヨハンナ・エリーザベトの陰謀は露見し、エリザヴェータを激怒させる。1744年6月6日、ベストゥージェフはエリザヴェータ女帝にラ・シェタルディ侯に対して24時間以内のロシア国外への退去命令を出させることに成功し、7月14日に大宰相(帝国宰相)に就任する。その年の末にヨハンナ・エリーザベトもロシアから追放され、ベストゥージェフの立場は強固なものとなった。
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