大学から鉄道会社へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 14:07 UTC 版)
「セルゲイ・ウィッテ」の記事における「大学から鉄道会社へ」の解説
セルゲイ・ウィッテは16歳までチフリスで育った。彼はチフリスのギムナジウムで学んだが、学問よりも音楽やフェンシング、乗馬に興味を示す生徒であった。彼はモルドバのキシネフでギムナジウムの上級を修了した。1865年、兄のボリスはウクライナのオデッサにある帝国ノヴォロシア大学(現、オデッサ大学)の法学科に進んだ。セルゲイは翌1866年に同大学の物理・数学科に進み、1870年、トップの成績で卒業した。 ウィッテは当初、理論数学の教授になることを目指しており、研究者の道に進むつもりであったが、周囲からは数学研究者は貴族や上流社会出身者になじまない進路であると考えられており、彼の親戚からも良い顔をされなかった。そうしたとき、彼はたまたま叔父の知人であった運輸通信大臣のウラジーミル・アレクセイエヴィチ・ボブリンスク伯爵から、研究者の道ではなく、鉄道分野での実績を積むよう説得された。ウィッテは、ウクライナ鉄道の事業について実践的な理解を得るため、伯爵の指示でオデッサ鉄道(英語版)で6か月間のインターンシップを行った。さまざまな部署でのトレーニングを行い、訓練期間の終了時に事務所の主任を任された。給料は大学教授よりもよかった。1871年7月1日、彼は公務員の職に就いた。切符販売に始まったウィッテの鉄道業務は20年におよび、そのなかで経営者として頭角をあらわしていった。彼はオデッサ港の整備に意を払った。 1875年の末、オデッサ鉄道のティリガルで列車が大破し、多くの人命が失われる事故が起こり、それによりウィッテは逮捕され、一旦禁固4か月の刑に処せられた。しかし、裁判は長引き、そのなかでウィッテは、来るべき露土戦争(1877年-1878年)における兵員と軍事資材の輸送について最大限に力を尽くすことを鉄道側に指示する強い意志を示した。これがニコライ・ニコラエヴィチ元帥の耳にとまって、元帥の要請で処分は禁固2週間に減刑された。ウィッテは昼は「ロシアの鉄道事業研究のための特別高等委員会」の一員として働き、夜だけ拘置所で暮らすという生活を一時送った。釈放された彼は、列車運行の遅延を克服するために奮闘し、ダブル・シフト・オペレーションという新システムを考案した。1877年4月11日、ウィッテは公務員の職を離れた。
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