大型墳丘墓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/06 14:49 UTC 版)
弥生後期、近畿地方や瀬戸内海沿岸で、それまでより規模の大きい墳丘墓が営まれ始める。特に吉備地方(岡山県〜広島県東半)では、全長数十メートルに及ぶ墳丘墓も現れ、埴輪の祖型である大型の壺や器台を伴うようになる(特殊器台・特殊壺)。なかでも岡山県倉敷市の楯築墳丘墓は直径約45メートル、高さ約5メートルの円丘の両側に方形の張り出しを持ち、全長約80メートルもある双方中円墳の形をしている。この地域の代表的な首長の墓と考えられ、その築造年代は、3世紀前後に比定されている。なお、兵庫県たつの市揖保川町養久山(やくやま)5号墳も突出部を二つ持っている。これらの突出部は、祭壇などではなく、棺を担いだ埋葬の葬列が通る「道」だったと考えられる。前方後円墳の成立時には、前方部に変化していった。一方では山陰にも墳丘墓の大型化が起こるが形態は四隅突出型墳丘墓と呼ばれる方墳の角が突き出したような形態となっている。墳丘墓全体に貼り石を敷き詰めたような高度な土木技術が用いられたものもある。この形態は北陸地方にも伝播していることから、環日本海的な勢力に発展しており日本神話の述べる古代出雲の存在感と通ずる発見がされている。 これらの墳丘墓は、弥生中期以前の墳丘墓と規模的に一線を画している。そのため、墳丘墓の呼称を弥生後期の大規模なものに限るべきとする意見が、多数となりつつある。このような墳丘墓は、3世紀中葉過ぎに出現する前方後円墳などの古墳へと発展することになる。墳丘墓にはまだ地域性が見られたが、古墳は全国斉一的であり、大きな差異は見られなくなっている。このことは、3世紀中盤を画期として、九州から東日本にわたる統一的な政権が確立したことを示唆するという説が主流である。
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