多面的な聖人性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/19 03:04 UTC 版)
『万葉集』415番には「上宮聖德皇子竹原井に出遊のとき、竜田山の死人を見て悲しみ傷みて作れる歌」として次の歌が掲げられている。 上宮聖德皇子出遊竹原井之時見龍田山死人悲傷御作歌一首(小墾田宮御宇天皇代墾田宮御宇者豐御食炊屋姫天皇也諱額田諡推古)「家有者 妹之手將纏 草枕 客爾臥有 此旅人可怜」 家にあらば 妹(いも)が手纒(ま)かむ 草枕 客(たび)に臥やせる この旅人あはれ 『万葉集』では片岡山ではなく、より河内国(大阪府東部)との国境に近い竜田山となっており、いずれも行き倒れの旅人を傷むものとなっている。当時、道に倒れ、あるいは、溝に転落して落命する旅人は必ずしも稀ではなく、それだけに太子は旅人の境遇や家族の悲しみにも思いを馳せて歌を詠んだものであろうと思われる。 それだけであれば、聖徳太子は聖にして徳のある慈愛あふれる皇子であり、見知らぬ人に対しても忠恕の念をいだく儒教的な聖太子ということにすぎない。しかし、ここで注目されるのは、この説話における「聖人」(聖・真人)の概念の多面的・重層的な性格である。第一に「ひじり」はもともと日本古来の古代宗教(古い形態の神道)における霊的能力者を意味していたのであるが、そこに中国の「聖」の概念が重ねられる。「聖人」はまた、儒教における絶対的な帝王であり、仁を身につけ礼の実践に努める「君子」よりさらに上の、最高の道徳的人格者である。さらに「聖人」はまた仏教にあっては絶対者であるブッダ、すなわち悟りをひらいた仏の姿にほかならない。 そのうえ、「凡人に非し、必ず真人ならむ」や「聖の聖を知る、それ実なるかな」などの記述にみられるように、道教における「真人」、すなわち道の奥義(宇宙の根源)を悟り、自由の境地を得て仙人となった理想的人間像が重ねられる。「真人」はまた仏教にあっては仏陀である。さらに、墓をみたら死体がなかったという逸話は、神仙思想における「尸解」にかかわりをもっている。いったん死んだ様態を呈して墓から抜けて昇天するのは、不老不死を得た仙人すなわち「尸解仙」なのであり、これまた道教に深いかかわりを有している。 要するに、以上述べたような多面的・重層的な聖人性こそが太子にふさわしいものと考えられ、どの宗派や教義の立場からしても太子が聖人であるということを説話は示しているのである。
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