夏目成美、鈴木道彦らとの交流
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「小林一茶」の記事における「夏目成美、鈴木道彦らとの交流」の解説
享和年間から文化年間にかけて一茶はこれまで所属してきた葛飾派よりも、当時著名な俳人であった夏目成美、鈴木道彦、建部巣兆、閑斎らとの交流が深まっていった。中でも夏目成美との関係は深く、事実上成美グループに所属するようになった。夏目成美は蔵前で札差を営む井筒屋の主人であったが、寛政12年(1800年)に家業を息子に譲って隠居した後は、趣味である俳諧に没頭していた。もともとが札差の主人であったため成美は裕福で、俳句の作風も清新かつ都会的であった。貧しい生活で句風も田舎風であった一茶とは対照的であったが、成美は境遇も俳句の作風も全く異なる一茶に目をかけるようになり、享和年間末期から親交が深まり、経済的にも俳壇においても一茶を支援していった。 一茶は成美宅にしばしば長逗留し、家事の手伝いなどをしている。また一茶は毎月七のつく日(七日、十七日、二十七日)に開催していた成美主催の句会の常連出席者であった。一茶は成美グループの中で単に句会に出席するばかりではなく、様々な情報交換、そして成美が主宰する狂言などの芸能鑑賞や花見に参加した。また成美グループの一瓢らとも一茶は交流を深めていった。一瓢は日蓮宗の僧侶で日暮里の本行寺の住職を務めており、作風が似ていたこともあって一茶と大変に気が合い、長く交際を続けることになった。一瓢は一茶の死後に故人を偲び、自ら木像を刻み供養したほどであった。 またこの頃の一茶と親密で、一茶を庇護した俳人に其翠楼松井がいた。松井は葛飾派の俳人であり一茶の兄弟子格であった。本職は商人であり、一茶とは文化年間から急速に親密になっていた。一茶は松井の家に半ば入りびたるようになり、最も多い文化8年(1811年)には年間127日、約3分の1は松井宅に滞在している。一茶は夏目成美ら他の俳人以上に其翠楼松井と親密であったと考えられるが、文化10年(1813年)5月、松井は没する。しかしその後も一茶と松井の遺族との交流は続いた。 其翠楼松井という例外もあったが、成美グループに深入りし、また鈴木道彦、閑斎ら、当時の有力俳人との交流の中でめきめきと実力をつけてきた一茶は、ますます葛飾派とは疎遠になっていった。葛飾派の書物である「葛飾蕉門分脈系図」によれば、「文化年中一派の規矩を過つによって、白芹翁永く風交を絶す」と、一茶は文化年間に葛飾派総帥の白芹によって葛飾派を破門となったとされているが、現存している資料から見ると文化2年(1805年)を最後に一茶は葛飾派の句会に出席しなくなったが、一茶と葛飾派との関係は続いており、問題の白芹ともお互いが編集した句集に句を採用していることからも、葛飾派からの破門という事態は想像しがたいとされている。ただし前述のように一茶と葛飾派との関係は徐々に疎遠となっていくことは認められる。これは一茶にとって葛飾派の作風が物足りなくなり、また閉鎖的な葛飾派の体制に飽き足らなくなっていったためと考えられている。こうして一茶は葛飾派から離れていき、やがて自らの俳風を確立していく。 一茶には俳人以外の友人もいた。特に親しかったのは柳沢耕舜であった。耕舜はもと武士であったが、故あって浪人となり、一茶の近所の江戸の下町に住み、寺子屋を開いて生活をしていた。一茶との付き合いは10年以上に及び、ちょくちょくお互いの家を行き来しては様々な話をして過ごした。しかし耕舜は文化4年(1807年)4月に亡くなった。親友の死に一茶は大層落胆し、耕舜先生挽歌を作り親友を弔った。
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