基次郎と音楽
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 04:23 UTC 版)
梶井基次郎が音楽を好きになったのは、子供の頃から母・ヒサが笙篳篥やオルガンを弾き歌って聞かせていたこともあるが、本格的に洋楽に目覚めたきっかけは、三重県立第四中学校(現・三重県立宇治山田高等学校)時代に楽譜の読み方を習ったことが基礎にあった。第三高等学校理科甲類に進んでからも、蓄音機を持っている友人の下宿でクラシックレコードをかけ、楽譜を片手に太いバスの声でオペラを歌う趣味を持っていた。基次郎はオルガンも弾くことができた。 1曲につき約10銭で買えた輸入楽譜を購入して曲を研究し、ブラームス、フーゴー・ヴォルフ、リムスキー・コルサコフ、ベートーヴェン、バッハやヘンデルなどの譜面を持っていた。蓄音機や楽器が欲しくても買えなかった基次郎は、楽譜を見ながら交響曲も口笛で歌えるようになっていた。 基次郎は、当時稀であった外国人の演奏家の来日公演にもよく足を運んだ。1919年(大正8年)10月のロシア大歌劇団の来日公演では券を買う金がなく、寮で『カルメン』や『ファウスト』を歌ってやり過ごしたが、1921年(大正10年)3月に来日したエルマンの京都岡崎の公会堂でのヴァイオリン演奏会は、2円の切符代をなんとか工面して行き、公演終了後にエルマンに握手をしてもらい感涙したりした。 その後も1922年(大正11年)秋に来日したゴドフスキーのピアノ演奏会や、1923年(大正12年)春のクーロン指揮の上野音楽学校(現・東京芸術大学)のベートーヴェンの『第九』の初演、ジンバリストの演奏会、5月の日露交響楽団など、ほとんど全部聴きに行った。 そんな基次郎は1921年(大正10年)には、自分が〈音楽の天才〉ではないことをすでに自覚しており、〈これから音楽の研究なんぞ始めるのは自分にとつては凡人的の趣味を養ふに過ぎない〉として、非凡人になるためには〈贅沢の沙汰〉であり、〈町人根性〉である趣味というものを馬鹿げたものと自戒していたが、それでも音楽の趣味だけは捨てることはできずに、研究も止めることはできなかった。
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