地方軍・辺境軍とは? わかりやすく解説

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地方軍・辺境軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 20:52 UTC 版)

「唐」の記事における「地方軍・辺境軍」の解説

初唐では、外国接す辺境には、都護府統括する「鎮」や「戍」という拠点置かれた。鎮に配置された兵は500人以下、戍には50人以下であり、鎮戍は太宗時代は千ほど置かれ、総兵力10万程度であったまた、「兵募」と呼ばれた臨時徴兵が行われ、高句麗新羅百済との戦い駆り出されていた。羈縻政策破綻するにつれ、鎮戍制では対応が不可能となり、異民族攻撃によって境界線後退した。そのため、高宗時代頃から、軍鎮という大規模な部隊置かれるようになり、玄宗時代には、鎮戍は半分程度減ったが、兵募は国境常駐し辺境軍は一時期には60万人以上存在した。これは全て徴兵から成り、「背軍」という逃亡兵が増加した。 唐政府は軍鎮を統括するために、都護府制から藩鎮制に710年から切り替え737年には、軍鎮兵募兵変えることとなった。唐政府の軍では、騎馬民族など少数民族胡人が身につけた騎射技術威力発揮し少数民族出身の「将」たちが太宗時代から武功立てることが多かった。 団錬兵は、団結兵とも呼ばれ徴兵よるもので、武則天時代はじまり、地方治安維持あたった。元は騎馬民族から農村防衛する役目であったが、在地治安維持のために置かれ、団錬使という武官や州刺史によって率いられた。また、都市には城謗という徴兵による治安維持の兵が置かれた。 安史の乱後の節度使率い藩鎮の軍は、家兵、官健、団錬兵に分かれていた。家兵は節度使個人の子飼い兵力である。家兵は私兵節度使家内奴隷であるとともに、衙兵に対して節度使対抗するための兵力となった。官健は税によって養われ職業兵士で、傭兵であり、最も数が多く国家財政圧迫する最大要因となったまた、官健のうち選抜された親軍を衙兵などと呼ぶこともあった。衙兵は、節度使から厚遇を受け、節度使排斥脅迫するものも現れ、彼らは驕兵呼ばれた。団錬兵は、徴兵により、唐政府同じく地方治安維持あたった。家兵や衙兵は、節度使仮父子といった血縁擬制する関係になることもあった。

※この「地方軍・辺境軍」の解説は、「唐」の解説の一部です。
「地方軍・辺境軍」を含む「唐」の記事については、「唐」の概要を参照ください。

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