地方軍・辺境軍
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初唐では、外国と接する辺境には、都護府が統括する「鎮」や「戍」という拠点が置かれた。鎮に配置された兵は500人以下、戍には50人以下であり、鎮戍は太宗時代は千ほど置かれ、総兵力は10万人程度であった。また、「兵募」と呼ばれた臨時の徴兵が行われ、高句麗・新羅・百済との戦いに駆り出されていた。羈縻政策が破綻するにつれ、鎮戍制では対応が不可能となり、異民族の攻撃によって境界線は後退した。そのため、高宗時代頃から、軍鎮という大規模な部隊が置かれるようになり、玄宗時代には、鎮戍は半分程度に減ったが、兵募は国境に常駐し、辺境軍は一時期には60万人以上存在した。これは全て徴兵から成り、「背軍」という逃亡兵が増加した。 唐政府は軍鎮を統括するために、都護府制から藩鎮制に710年から切り替え、737年には、軍鎮兵は募兵に変えることとなった。唐政府の軍では、騎馬民族など少数民族の胡人が身につけた騎射技術は威力を発揮し、少数民族出身の「蕃将」たちが太宗時代から武功を立てることが多かった。 団錬兵は、団結兵とも呼ばれ、徴兵によるもので、武則天の時代にはじまり、地方の治安維持にあたった。元は騎馬民族から農村を防衛する役目であったが、在地の治安維持のために置かれ、団錬使という武官や州刺史によって率いられた。また、都市には城謗という徴兵による治安維持の兵が置かれた。 安史の乱後の節度使の率いる藩鎮の軍は、家兵、官健、団錬兵に分かれていた。家兵は節度使個人の子飼いの兵力である。家兵は私兵や節度使の家内奴隷であるとともに、衙兵に対して節度使が対抗するための兵力となった。官健は税によって養われた職業兵士で、傭兵であり、最も数が多く、国家財政を圧迫する最大の要因となった。また、官健のうち選抜された親軍を衙兵などと呼ぶこともあった。衙兵は、節度使から厚遇を受け、節度使を排斥や脅迫するものも現れ、彼らは驕兵と呼ばれた。団錬兵は、徴兵により、唐政府と同じく地方の治安維持にあたった。家兵や衙兵は、節度使と仮父子といった血縁を擬制する関係になることもあった。
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