土井監督時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 04:25 UTC 版)
「オリックス・バファローズ」の記事における「土井監督時代」の解説
1991年より、40年以上も本拠地としていた西宮球場からグリーンスタジアム神戸に本拠地を移した。オリックスは、コンサルタント会社を使って、西宮球場周辺の市場リサーチをしたが、西宮球場は競輪場と兼用していたため、公営競技である競輪が行われる場所は「男がビール片手に集まる場所」とのイメージがあった。西宮周辺は、女子大学が多いにもかかわらず、野球観戦をする女子大生らが足を運びにくいとの調査結果が出たのが、本拠地移転の動機だった。移転の候補地としては、札幌市や千葉市、大宮市も検討されたが、結局はグリーンスタジアム神戸に決まった。その理由は、すでに同球場が準本拠地のような位置づけだったことに加え、神戸市から熱心な誘致活動を受けたことが要因である。市当局からはグリーンスタジアム神戸への大型スクリーン設置の約束をとりつけ、入場者数によって球場使用料を変えたり、球場内の売店の売り上げや広告収入を球団と神戸市が折半したりするなど、当時の慣例にとらわれない使用契約を結ぶことができた。本拠地移転と同時に、公募の結果チーム名を長年使用したブレーブスからブルーウェーブ(BlueWave)に変更、オリックス・ブルーウェーブとなる。担当記者達は長年チームを率いた上田の後任は二軍監督の福本豊が最有力だと思っていたが、土井正三になり、脱阪急色が進んでいった。 1991年 開幕5連敗でスタートダッシュに失敗。以降も4月24日から6連敗、5月6日から8連敗を喫し、5月終了時点で14勝27敗で最下位に沈むなど低迷したが、投手では新人の長谷川滋利、野手では7年目の高橋智の活躍もあり6月以降は復調。しかし自慢のブルーサンダー打線は上手く機能せず、投手陣も若手ベテラン問わず不調や怪我があり3位に終わる。この年のドラフトでは1位で田口壮、そして4位で鈴木一朗(イチロー)を獲得した。ブーマーが退団。 1992年 開幕権はこの年から新しく本拠地を千葉マリンスタジアムに移転したロッテが本拠地の開幕戦を熱望したため、交渉の結果オリックス側が譲渡した。前年リーグ3位の打率ながら本塁打と打点はリーグ4位と中途半端な打撃成績の一方リーグ5位の失策数もあり、脱ブルーサンダー打線、繋ぎの野球、守り重視の野球を目指したが、前年に続き4月8日から5連敗、5月9日から8連敗と序盤から低迷。脱ブルーサンダー打線も打率こそリーグ2位になったが本塁打数はリーグ最下位と苦しみ野手陣の怪我や不調を投手陣がカバーするのがやっとで年間成績は首位西武と18ゲーム差でまたしても3位に終わる。阪神から松永浩美とのトレードで野田浩司を獲得。 1993年 阪神から移籍の野田が最多勝に輝く活躍を見せたが、阪急世代のベテランらが目立った活躍ができず、3年連続の3位に終わり、土井は監督を退任し、後任に仰木彬が就任した。
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