国軍との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 02:26 UTC 版)
突撃隊は国軍とも対立を深めていた。国軍と突撃隊は、1933年5月に協定を結び、突撃隊と親衛隊と鉄兜団は国防省の管轄に入ることになっていた。国軍からのスタッフの手も借りてフリードリヒ・ヴィルヘルム・クリューガー突撃隊大将の下に突撃隊員の訓練が行われ、国軍に送りだしていた。しかし、レームは東部国境守備隊の指揮権を要求し、またその武器庫を管理下に置こうとしたため、国軍と対立を深めた。 もともとレームは、貴族が中心の国軍では、旧来のプロイセン王国と同じ古い戦術思想しか持ち得ない軍隊にしかならないと考え、これにかわって突撃隊を国民軍として正規軍にするという構想があった。突撃隊は1934年春には300万人以上の人員を擁するようになっていた。うち武装兵士が50万人いた。ヴェルサイユ条約で陸軍兵力10万人に限定されていた国軍にとって、これは大いに脅威となる存在であった。一方ヒトラーは、政権の維持のためには国軍の支持が不可欠と認識しており、再軍備は国軍を以って行うと決め、レームの国民軍構想を却下していた。 ドイツの国際連盟脱退によって、ポーランドとフランスがドイツへ侵攻してくるのではないかという危機感が高まり、再軍備問題が関心を集めるようになると、レームは1934年1月15日に突撃隊特別全権官の任務を「反国家的陰謀との闘争」に限定させるなど、第二革命問題で一定の譲歩の姿勢を見せるようになったが、代わりに再軍備問題に関連して、突撃隊を正規軍にするという野望を本格的に抱くようになった。これが達成できれば、突撃隊員の失業問題は大きく改善し、第二革命など起こす必要はなくなるため、レームは革命より突撃隊正規軍化に力を入れるようになった。 ヒトラーは1934年1月2日、レームに対して友情とこれまでの功績への感謝を強調した私信を送った。その中で、安全保障は国軍に任せるべきであることを婉曲に伝えた。しかし、この手紙の真意を理解しなかったレームは、2月初めにヴェルナー・フォン・ブロンベルク国防相に対して、国家安全保障は突撃隊の任務とする書簡を送った。この書簡を見たブロンベルクは「レームは全ての国防組織を突撃隊の傘下にして国軍をただの訓練機関にしようとしている」と結論し、ヒトラーに処置を要求した。2月末、ヒトラーの仲介で国防省において、ブロンベルクとレームが協定を結び、国軍が国で唯一の武装兵力であり、突撃隊はその補助のため国境地帯の警備や予備訓練を担当することが取りきめられた。しかしレームの反発は大きかった。 1934年4月11日から15日にかけてバルト海上のポケット戦艦ドイッチュラントで、ヒトラーはブロンベルクら国軍幹部と会談し、突撃隊を抑える代わりに死期が迫っていたパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領の死後に自らに忠誠宣誓を行う事を要請した。
※この「国軍との対立」の解説は、「突撃隊」の解説の一部です。
「国軍との対立」を含む「突撃隊」の記事については、「突撃隊」の概要を参照ください。
- 国軍との対立のページへのリンク