国軍としての実態
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 09:38 UTC 版)
多くの民族で構成され、拡充が進められた満洲国軍ではあったが、事実上関東軍の支配下にあった。日本との共同防衛のために用語の日本との統一が図られ、1940年(康徳7年)から号令の全部が日本語になり、命令・指示もできるだけ日本語で行うことが推進された。兵器の名も日本語で呼んだ。公文書も日本語で、一部に満洲語(中国語)を併用した。 こうした実態に不満を持つ軍人が多く、離反者は後を絶たなかった。1936年(康徳3年)1月の金廠溝事件や、ノモンハン事件での石蘭支隊歩兵第14団第1営による反乱事件が起こっている。第二次世界大戦末期にソ連軍が侵攻してくるとソ連軍に離反する者が相次いだ。 一方で、朝鮮を統治した日本の影響下にあり「大日本帝国と不可分的関係を有する独立国家」だった満洲国軍出身者が韓国軍の基幹を構成し、政治的にも影響力を行使した事を問題視する声も以前より存在している。2005年8月29日、反民族特別法によって民族問題研究所と親日人名辞典編纂委員会が発表した親日人名辞典名簿3090人のなかに満洲国軍将校の勤務歴のある朝鮮人が親日派としてリストアップされた。 白善燁(朝鮮人):1941年(康徳8年)奉天軍官学校卒業。中尉として終戦を迎える。後に韓国陸軍参謀総長、韓国陸軍で最初の大将となる。 朴正煕(朝鮮人):1940年(康徳7年)4月に新京の陸軍軍官学校に入学(2期生)、1942年(康徳9年)に首席卒業。1942年(昭和17年)10月に日本の陸軍士官学校(57期)に派遣され、1944年(昭和19年)4月に卒業。中尉として終戦を迎える。後に韓国大統領となる。
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