国柱会へ改称以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/29 06:37 UTC 版)
1914年(大正3年)、名称を現在の「国柱会」に改称。1922年(大正11年)には芸術を通しての教化活動と銘打って外郭団体「国性文芸会」が組織され、日本国体に基づく独自の「国性芸術」を展開した。 1923年(大正12年)には議会政治に参画する目的で「立憲養正会」が結成され、国立戒壇建立を主張、天皇の法華経帰依による広宣流布、宗教革命を目指した。1929年(昭和4年)には智学の次男・田中澤二が総裁に就任。澤二は前年の第16回衆議院議員総選挙に立候補し落選、澤二の議席獲得はならなかった。しかし1936年(昭和11年)の第19回衆議院議員総選挙に同会公認で立候補し落選した田中耕が同年繰り上げ当選し、初めて帝国議会に議席を獲得した。田中耕は1937年(昭和12年)の第20回衆議院議員総選挙にも立候補し再選。地方議会や農会には最盛期で100人を超す議員が所属した。同会は新体制運動や大政翼賛会には批判的であったため、1942年3月17日結社不許可処分を受け、解散に追い込まれた。 1926年(大正15年)には明治節制定の請願運動を契機に外郭団体「明治会」が創設され、愛国主義運動を宣揚、1927年(昭和2年)に請願が実り明治節が制定された。 また、著名な会員であった帝国陸軍・石原莞爾中将の「東亜連盟」構想や「世界最終戦論」、更には石原が参謀であった満州国建国の思想的バックボーンとして、国柱会の思想は多大な影響を及ぼした。特に満州国には皇軍慰安隊を国柱会より派遣し、関東軍軍人を支援している。この時期が国柱会の歴史上もっとも活況だった時代であり、日蓮系諸教団の中でもエリート主義集団と目されるほど、有数な著名人が会員であったことで知られる。
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