国政選挙と知事選
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 01:13 UTC 版)
国政選挙では、中選挙区制時代にはしばしば独自候補を立てていた。1980年の第36回総選挙では、東京2区に立てた候補のおかげで、無投票当選を阻止したこともあった(戦後の衆院選で、無投票当選の例はない)。神奈川県が主地盤であったことと関連して田川誠一衆議院議員(旧神奈川2区選出)との関係が濃く、田川が党首だった進歩党の党大会には大隈議長が来賓で招かれて祝辞を述べていた。1989年の参院選神奈川選挙区では進歩党公認円山雅也候補の支援に回った。 しかし、2005年の第44回衆議院議員総選挙では、「(社民党と新社会党は)かたくなに団結を拒んで」いることを理由に、党としては支持しないと発表した。但し「個人の判断」として各党員は社民党を応援し続けている。また、たびたび社民党幹部の挨拶や声明、談話、広告などが機関紙に載せられており、旧社会党系と労働党の関係は現在も良好と言える。 神奈川県知事選では、1979年より山本正治を独自候補として6回連続公認し、特に1979年と1983年では自由民主党が支持に回った事でオール与党となった長洲一二に対する唯一の対立候補となった。これにより、従来は泡沫候補として極めて小さく扱われる労働党の主張や山本の人柄が、新聞などでは現職知事の長洲と同格で扱われ、同党の基礎票を大きく上回る得票を獲得した。山本は1995年と1999年にも立候補し、いずれも長洲やその後継指名を受けた岡崎洋といった自民党から社会党までの相乗り候補や、長洲県政支持から離脱した共産党の独自推薦候補と争ったが、1995年には自身で最多の得票数を記録した。その後は独自候補擁立を見送り、2003年には飛鳥田一朗(医師、飛鳥田一雄元横浜市長・社会党委員長の甥)を支持した(落選)。
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