国務次官補時代
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ライスと家族ぐるみの付き合いがあり、昔からの師でもあったマデレーン・オルブライトは、1997年国務長官に就任すると、クリントン大統領(当時)にアフリカ担当国務次官補としてライスを推薦した。一方で、連邦議会黒人幹部会(Congressional Black Caucus)の黒人議員幹部らは、ライスを「ワシントンに同化した黒人エリート」の一人であるとみなし、国務次官補の第一候補とはしなかった。 だが、ジェシー・ヘルムズ上院議員が議長を務めた、上院の助言と同意を得るための公聴会が開かれると、ライスはまだ乳飲み子だった息子を抱いて出席し、これが公聴会の民主・共和両党の上院議員に好印象を与え、ライスは「"助言と同意"を得るプロセスを楽々とパスした」。ライスは、クリントンが2001年に政権を去るまで、アフリカ担当の国務次官補を務め続けた。 多くの官庁職員や外交官がライスを「とても聡明だが、経験不足で柔軟性に欠ける」と評している。「若く、頭脳明晰な野心家」で、「アメリカの安全保障を強化することを目的として、アフリカを世界経済の枠組みの中に組み入れる」ために働いていると考える者もいた。一方で「権威主義者。生意気。自分と違う意見を考慮することを嫌がる」と批判する声もあり、伝えられるところによれば国務省アフリカ局の外交官といざこざを起こしたとされる。ニューズウィーク誌国内版記者でもあるマーサ・ブラントはスタンフォード・マガジン誌の記事にこう書いている。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0} ライスが国務省での5年間を終えホワイトハウスを去った時、同僚たちはライスにズールーの戦士の盾をプレゼントした。友人のひとりは「外交局の凝り固まった官僚主義と戦うとき必要だろ?」と話している。事実、ライスが"霧の底地"(米国務省の俗称)に来る前から対空砲火のような激しい批判が起きていた。ライスの就いた職は、それまで何十年もの間長く経験を積んだアフリカニスト達が占めてきたポジションだったのだ。そのため、昔からいる官僚たちはライスは未熟すぎる、彼女は政治的理由で雇われただけだと不満を漏らしていた。また、クリントンが指名した人物の多くはライスと同じ「若さゆえの傲慢さ」という問題を抱えていると主張するものもいた。ライスと仕事をしたあるアフリカ専門家はこう漏らす。「彼女は、自分が何を知らないのかを知らない。そして自分に反対するものを許さない。政治家として未熟と言うしかない」。アフリカのある雑誌からは、ライスは伝統的なアフリカの男性指導者らにほとんど何の影響も与えなかったのではないかとの疑問が呈された。南アフリカ「ビジネス・デイ」誌のサイモン・バーバーは「米国のアフリカ政策をこんなに若い女性に託すとは、クリントンは実に進歩的だった。」と述べ、続けて「クリントンはアフリカ文化の現実を完全に無視した。」と記している。ライスはこうした懸念を退けるように次のように発言している。「アフリカ人たちは私とプロのやり方で交渉するほかないのです。私はアメリカ合衆国を代表しているのですから。」「彼らは最初は分からずに後で気付くかもしれません。でも気付いた後は(私が)何を言うか、それをどう言うか、そして言ったことについて何をするかについて、耳を傾けなくてはならないのです。」
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