国内レースの開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 08:42 UTC 版)
「マツダ・10A型エンジン」の記事における「国内レースの開発」の解説
マツダは、REの耐久性を訴求するために、海外特にヨーロッパの耐久レースをメインにレース活動を続けていた。そのため国内レースには、ほとんど参戦しなかった。当時は、ヨーロッパの情報は、なかなか日本には伝わってこなかった。そのため 日本では、ヨーロッパでのREの活躍を知っている人間は、限定されていた。口の悪い人間は、「国内では勝てないから、国内レースに参戦せずに海外のレースにしか参戦しない」と言われるようになった。そのためマツダは、国内レースにも参戦して、REの優秀性を訴求するように方針変更を行った。 1969年マツダは、スカイラインGT-Rと対峙するためにヨーロッパの耐久レース仕様のR100を全日本鈴鹿自動車レースに送り込むが、オーバー・フェンダーの仕様が国内のツーリングカー規定に適合しなかったので、スカイラインGT-RのGT-2クラスではなくRクラスにエントリする。Rクラスは、1,300 ccのエンジンを搭載した国内の2座席スポーツカーがメインで、その中で最高214 PSのR100は、無敵の1位となる。 1970年マツダは、5月の富士での日本GPのツーリングカー・レースにGT-Rと直接対決をするために、224 PS/10,000 rpmの2台のR100を送り込んだ。本番のレースでは、ストレートでR100は、何回もスカイラインGT-Rを追い抜くがS字コーナで抜き返されてしまい、3位入賞という結果を得た。これは、R100の車幅の狭さとレース仕様らしくない古典的な足回り(リジット・アクスル&リーフサスペンションと高いロール・センタ位置)に起因するものであった。このレースで、マツダは、レーシング10Aのポテンシャルの高さをレースファンに見せつけることに成功したが、翌年のレギュレーション改正によってペリフェラルポートの国内ツーリングカーレースでの使用禁止という足かせを背負うことになる。 1971年JAFは、ペリフェラルポートの国内ツーリングカーレースでの使用禁止のレギュレーションを制定する。これを受けて、マツダは、10Aより12Aのブリッジポートへのチューニングへ力を入れていく。サイドポートでのチューニングで、吸気系をチューニングすることは、10Aと12Aの両方に効果が出てくることになる。マツダは、新モデルのサバンナを発表と同時にツーリングカーレースへの参戦を開始する。サバンナは、R100より全幅を広げてトレッドを大きくしてロールセンタの高さを下げることによってコーナリングの挙動が安定している。10Aを搭載したサバンナが、12月の富士ツーリスト・トロフィレースで総合優勝を飾り、スカイラインGT-Rの50連勝を阻止した。また 国内レースでは、プライベータによる2,000ccクラスのレーシングエンジンを搭載した、2座席スポーツカーレースの関心が高まってきた。この流れを受けて 京都のコジマエンジニアリングは、10Aのペリフェラルポートを搭載した2座席スポーツカーのKE-RE-Iを作成して鈴鹿グレート20ドライバーズレースに参戦して総合3位を獲得する。優勝車のエンジンは、1,800 ccのFVCで約230 PS。このエンジンと同程度の出力を確保している模様であった。
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