善光寺七名所の発生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/23 14:07 UTC 版)
善光寺七名所は、江戸時代初期から後期にかけて徐々にまとめられていったと考えられている。文献に初めて現れるのは1667年(元禄10年)に善光寺町の商人によってまとめられた『善光寺浮石子 方尺集全』であり、阿闍梨池と独寝橋がそれぞれ七池と七橋の一つであると記述されている。同書は他に50の名所を挙げており、中にはのちに善光寺七名所に含まれているものもあるが、それらについては触れていないため、当時は七池と七橋のみがあったと考えられる。次には1764年(明和2年)頃にまとめられたとされる『善光寺伝記』があり、すでに七寺・七社・七池・七清水・七小路・七橋・七塚が出揃っている。なお、この『善光寺伝記』は現在写しのみが伝わり原本は現存しないため、当時のそのままの記述とは言い難く、転写されていく過程で付け足された可能性もある。事実、1840年(天保11年)に書かれた『芋井三宝記』下巻には、『善光寺因縁物語』に七寺についての記述があることに触れ、それを列挙しているが他の名所については触れておらず、1849年(嘉永2年)発行の『善光寺道名所図会』三巻には七寺と七小路を除いた5種類の七名所が所在と謂われに触れ紹介されているのみである。『善光寺伝記』以降で47名所すべてが揃っている事が記述されているのは1860年(万延元年)に完著した『科野佐々礼石』である。下巻「北信四郡名所旧跡細見」の項で「右四十七ヶ所古事の縁記有爰に略す」とあり、すでに49か所の名所として広まり、複数の本に著述されていたことがうかがえる。 『長野』第54号に長野郷土史研究会会員山田藤三郎は、江戸時代中期に大勧進住職の等順大僧都が善光寺に因縁の深い名所を49か所選びまとめた、と書いている。等順が住職だったのは1782年(天明2年)から1801年(享和元年)と江戸時代後期であり矛盾が生じているが、江戸時代中期から江戸時代後期にかけて七名所が作られたという歴史的事実に合う言い伝えである。 複数の書籍で兜率天にちなみ49か所にしたとされている。 また、2018年に小林一郎と小林玲子は著作『善光寺四十九霊地』において、善光寺に弥勒菩薩像が祀られていることから過去に善光寺では弥勒信仰があったと解釈し、ここから弥勒菩薩がいるとされる兜率天にちなみ、49の霊地が指定されたとした。今までの説と最も異なる点は、現在言われているような名所ではなく本来は霊地であったこと、またそれらが徐々に付け加えられていったのではなく同時期にできたものとする点である。しかしこの説はまだ一般に認められたものではないことを留意したい。
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