商業主義への回帰-ディスコ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 01:19 UTC 版)
「ポピュラー音楽」の記事における「商業主義への回帰-ディスコ」の解説
ポピュラー音楽の世界も、60年代後半の途方もない盛り上がりは見られなくなる。一つはオイルショックに始まる不況がレコード会社を慎重にさせ確実に売れるアーティストだけを売るようになった点、もう一つはアメリカの音楽産業が集中化した点である。60年代末までのローカルラジオの個性的な番組は全米共通の画一的な番組に変化し、特定のファン層を対象に製造された商品としての音楽がテープで全米に配給され、一斉に流された。結果的にポピュラー音楽界は、以前の商業主義路線に回帰した形になった。 商業主義路線の代表は、ディスコ(ディスコ・ミュージック)である。バス・ドラムによる一定不変のビートをアメリカ黒人のダンス音楽にくわえてリズムを単純化したもので、初めはニューヨークのゲイ・カルチャーの音楽だったが、名前の通りディスコ(DJ、ディスクジョッキーがLPで音楽を流し、酒類が提供され、客にダンスをさせる店舗のこと)でのダンス・ミュージックだった。もともとダンスホールは生バンドの演奏が当然だったが、経費とスペースの節約のため若者向けの安直な店でレコードでの音楽提供が始められたのが最初のディスコの姿だった。ディスコはもともとレコードと言う意味のスペイン語やイタリア語である。しかしDJが客に呼びかけながらレコードをかける親しみやすい雰囲気が若者の人気を集め、レコード会社がDJが使いやすいように30cmのシングルでリズムを強調した踊りやすい音楽を提供し、それに合わせた新しい踊りが次々に出現し、77年には映画「サタデー・ナイト・フィーバー」というディスコダンスの名手を主人公にした映画が大ヒットするなどし、ディスコは大ブームとなった。70年代後半のメイン・ストリームはディスコだった。サタデー・ナイト・フィーバーに出演していたビージーズや、日本でもカバー曲が良く知られるヴィレッジ・ピープルが代表的である。 しかし、ディスコは(踊るための音楽なのでやむを得ないが)リズムは一定で、エレキ・ギターが前面に出ることはなく、歌詞もメッセージ性や過激な要素はなく、歌も特にメロディを歌い上げたりはしておらず、ロックの刺激性に慣れた人やフォークのメッセージ性に感じ入った人には明らかに物足りない。こうしたディスコに対し、音楽ファンや音楽評論家は「商業主義だ」という批判を容赦なく浴びせた。またディスコ文化に対しても、激しい反発が寄せられた。その結果、80年代に入る頃にはアメリカではディスコの人気は著しく落ち込んでいた。ただし、踊らせるための音楽は80年代を通じて存在し続け、80年代後半くらいから後述のエレクトロ・ポップの要素を取り込んでハウスと呼ばれるジャンルがニューヨークやシカゴで生まれ、イギリスを通じて全ヨーロッパに広まった。またディスコはクラブと呼ばれるようになる。
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