周恩来の宿願としての「四つの近代化」
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「四つの近代化」の記事における「周恩来の宿願としての「四つの近代化」」の解説
この「工業、農業、国防、科学技術」という4部門での近代化は、建国以来の中国共産党指導者たちの重要な目標であった。1956年には、すでに劉少奇が1956年9月の中共第8回全国大会における「政治報告」において提唱している。しかし、この劉少奇の提案は、「大躍進」政策(1958年-1960年)の前に実現することはなかった。1964年には、周恩来が第3期全人代第1回会議での「政府活動報告」において、これらの4部門の近代化を提起している。1973年周恩来は、「四人組」との激しい確執を経つつも、中共第10回全国大会を主催し、林彪事件にも決着を付け、さらに鄧小平の復活を果たした。毛沢東と周恩来の合意の下、1973年3月鄧小平は、国務院副総理の職務を回復した。1975年1月に11年ぶりに第4期全人代第1回会議を主催した。ここで、周恩来は「政府報告」を行い、その中で「今世紀内に農業、工業、国防、科学技術の全面的な近代化を実現し、中国の国民経済を世界の前列に立たせる」と提唱した。周の基本路線は、<1>アメリカと国交を回復することで軍事包囲網を解き、同時に技術移転の封鎖網をも解き、<2>外国から導入する先進プラントを軸に経済建設の方向を組み立てることであった>。これは必然的に専門家を重視する社会に組み替えることを意味する。言い換えると、<1>は「国際的な階級闘争の連帯」の放棄であり、<2>は「肉体労働者が政府や企業内の各段階の権力を握らなければならない」という階級論を変えようとするものである。つまり社会主義社会で知識の有る者、権力の有る者が階級という集団をつくり、肉体労働者、底辺労働者を支配するという毛沢東とその左の思想を継承した「文革派」を、外交をテコに実態で崩していく路線であった。しかし、周のこの提唱は、文化大革命の嵐の前に吹き飛ばされ実現しなかった。文革左派にとって最も耐え難かったことは、専門家の実質的な重用であったと思われる。1976年4月に党の機関誌『紅旗』で方海の名で「洋奴哲学を批判する」という外国技術導入に対する痛烈な批判をしていた。これに対し周恩来は、陳雲、王震らの幹部とともに、引き続き行政や経済の立て直し(経済整頓)に奔走したが、このときには、彼の体をガンが蝕んでいた。病床に伏す時間の多くなった周に代わって、鄧小平が日常工作を取り仕切るようになった。しかし、周や鄧の「脱文革」と「整頓・建設」路線は、文革の推進者である江青らの「四人組」の激しい攻撃にあった。1976年1月8日、周恩来が死去すると、鄧小平は後ろ盾を失った。1月15日に周の追悼集会が開かれ、そこで弔辞を述べた鄧小平は、その直後権力の座から引きずり降ろされた。
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