合併後の動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 02:38 UTC 版)
日英水電を吸収した早川電力では、1922年(大正11年)4月に周辺事業者3社(天竜電力・福田電力・東遠電気)を合併して静岡県西部での供給区域を拡大。さらに翌1923年(大正12年)7月には早川に榑坪発電所(後の早川第一発電所、出力2万キロワット)を完成させ、同発電所から浜松方面への送電を開始する。日英水力電気から引き継いだ東京での電力供給権を行使すべく1924年(大正13年)7月に東京送電線を完成させたが、その過程で資金不足から中京地方と北部九州を地盤とする大手電力東邦電力の傘下に入った。そして翌1925年(大正14年)3月、早川電力は同じく東邦電力傘下にあった群馬電力と合併、東京電力となった。 この東京電力の手で、1927年(昭和2年)8月に田代川第一発電所(出力1万6,700キロワット)が、同年11月に田代川第二発電所(出力2万800キロワット)がそれぞれ建設された。大井川源流部の田代ダムより取水し、静岡・山梨県境の分水嶺を貫き早川側に落として発電するという発電所であり、かつて日英水力電気が構想した「椹島保村計画」が形を変えて実現したものである。東京電力ではこれらの電源を背景に既存事業者の東京電灯へ競争を仕掛け、「電力戦」と呼ばれる激しい需要家争奪戦を展開するも、1928年(昭和3年)4月に東京電灯へと合併された。 日英水力電気が立案した3か所の開発計画のうち、「牛ノ頚計画」と「椹島保村計画」は戦前のうちに実現したが、接岨峡での「井川梅地計画」のみ長く実現せず、水利権が東京電力から東京電灯、次いで日本発送電へと渡っていった。開発の実行は太平洋戦争後のことで、日本発送電から水利権を引き継いだ中部電力により、井川発電所・奥泉発電所として完成をみた。
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