古青江・中青江・末青江
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/16 04:24 UTC 版)
青江鍛冶は、平安時代末期から南北朝時代まで刀工を輩出しているが、室町時代以後は絶えている。青江の刀工は年代から古青江(こあおえ)、中青江(ちゅうあおえ)、末青江(すえあおえ)の3つに分けられる。古青江は鎌倉中期頃まで、末青江は南北朝時代の延文年間(1356 - 1360年)を中心とした時期の刀工を指し、これら2つについてはその特色がはっきりしている。これらの中間に位置するものを中青江と呼称している。 古青江は、その作風に著しい特色がある。太刀姿は腰元で大きく反り、為次作の太刀(号狐ヶ崎)のように茎(なかご)にも反りの付くものがある。元から切先へ向かうにつれて反りは浅く、幅は細くなり、切先は小切先となる。地鉄(じがね)は備前物よりも肌立ち、沸(にえ)が目立ち、澄肌(墨肌とも)と呼ばれるこの一派独特の肌が見どころとなっている。澄肌とは青く澄んだ地鉄のなかに黒く色の変わって見える地斑(じふ)が見えるものを指す。古伝書には「地色底黒にして霜ふりたる処々に澄膚あり」(秘伝抄)、「青き地に鉄色変りて所々黒目に見ゆる」(本阿弥光甫秘伝書)などと表現されている。刃文は直刃(すぐは)調や小乱れを主として小丁子を交えた、こずみがちの刃文となり、帽子は小丸に返るものが多い。茎の鑢目(やすりめ)を大筋違(おおすじかい)とするのもこの派の特色である。銘を切る位置にも特色があり、太刀であっても刀銘(裏銘)、すなわち、腰に佩いた際に体に接する面に銘を切る例が多い。刀工名は、守次、貞次、恒次のように、「次」字を通字とする。伝承によれば、後鳥羽院は月別に山城、備前、備中の各国から鍛冶を召して院内で鍛刀させたというが(いわゆる後鳥羽院番鍛冶)、『観智院本銘尽』によると、備中国からは貞次、恒次、次家が番鍛冶として召されたという。古青江の代表工には既述の守次、貞次、恒次、次家のほか、為次、康次、包次、助次、俊次、次忠、末次らがいる。 一方の妹尾鍛冶は、則高を祖とするというが、現存刀は少ない。作風は備前物に似るが、同時期の備前物よりは地味である。妹尾鍛冶とされる者に則重のほか正恒、是重、安家らがいる。正恒は、同時代(平安末期〜鎌倉初期)の古備前派にも同名の刀工が存在する。備中正恒は鑢目(やすりめ)を大筋違とする点が古備前正恒と異なるが、2名の正恒は作風、銘字ともに類似しており、両者には何らかの関連が想定される。 中青江は鎌倉時代末期から南北朝初期頃の青江鍛冶を指す。古青江には銘に年号を切ったものを見ないが、中青江の時代から年号入りの銘がみられる。このうち最古の年号は正和(1313 - 1316年)である。また、銘に居住地や官名を切るものもあらわれ、「備中国住右衛門尉平吉次作」「備州万寿住右衛門尉吉次作」などと銘した太刀が現存する。作風は前代に引き続き、地鉄には澄肌がみられ、刃文は直刃調を主とするが、前代にはみられなかった丁子を交えた乱刃の作もある。代表工に助次、吉次、直次、恒次、貞次らがいる。恒次、貞次などは古青江にも同名の刀工がいる。青江では異なる時代に同名の刀工が複数存在する傾向があり、たとえば恒次という銘を切る刀工は銘鑑には平安時代以降8名が記載されている。 末青江は延文年間(1356 - 1360年)を中心とした南北朝時代の青江鍛冶を指す。太刀は、この時期の日本刀の特色を反映した、刃長3尺(約90センチ)を超える大太刀があらわれる。これらの大太刀は、幅広く、反り浅く、切先が延びて大切先となる、この時代特有の造り込みを示す。この時代には短刀の作もみられるが、やはり時代の特色を反映して、寸延び(刃長1尺を超える)で幅広く、やや反りの付いたものが多い。刃文は伝統的な直刃調の刃文を焼くものと、逆(さか)がかった大模様の丁子乱れを焼くものがある。代表工に次吉、守次、次直、貞次らがいる。刃文が「逆がかる」とは、刃文を構成する「足」が刃縁と直角にならず、斜めに傾いているものを形容する用語で、刃文が「逆がかる」のは青江物全般の特色である。
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