半導体産業における摩擦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 14:05 UTC 版)
1980年代の終わりまでに、日本は半導体産業において世界の生産と貿易で支配的な地位を確立していた。特に、彼らはDRAMの世界市場を支配するようになっていた。たとえば、日本は80年代の終わりには1メガビットDRAMの世界市場の90%、また半導体機器の48%を日本が占めていると思われていた。1960年には600万ドル、1980年には20億ドルの輸出だったが、1988年の貿易データによれば、日本は120億ドル以上の半導体機器(と真空管)を輸出し、劇的な増加を示していた。しかしながら、1988年における半導体の輸入は全体で22億ドルに過ぎなかった。 日本の競争力の上昇と世界市場におけるアメリカ製品の市場占有率の低下は、不公正な取引を行っているという主張と相まって、半導体の問題は1980年代を通じてアメリカと日本の間で論争の議題となった。主張にはアメリカ市場においてダンピングが行われているという疑いと日本がアメリカ製品に対する作為的な輸入障壁を設けているというものが含まれていた。 1986年の交渉によって日本のDRAM輸出価格とアメリカ製品の日本市場における市場占有率(その時点で10%であったのが1991年には20%にまで上昇した)をともに引き上げることで合意に至った。アメリカは日本が合意を誠意をもって実行しなかったことに不満を持ち、報復として日本のアメリカへの輸出品3億ドル相当に対して100%の関税をかけた。DRAMの輸出価格が制裁を部分的に解除させるほど上昇していた証拠はあったが、他の者は日本におけるアメリカ製品の市場占有率の上昇を承諾するまで制裁を続けるべきであるという意見を持ち続けた。 この全体の話、特に日本においてアメリカ製の商品の市場占有率をどの程度受け入れることができるのかという疑問、はこの10年の終わりまで激しい論争の対象となり続けた。アメリカは日本の技術が優れたものであることを認め、日本がアメリカに対して優れており、日本はいまだにアメリカにおける価格競争力を維持することができたが、アメリカの日本への市場戦略は日本の国内企業のものほどうまくはなかった。
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