北風家の成立とは? わかりやすく解説

北風(喜多風)家の成立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 23:16 UTC 版)

北風家」の記事における「北風喜多風)家の成立」の解説

九州逃げた尊氏追討将軍である新田義貞から軍忠状とその佩刀賜り喜多風(後に北風改める)の姓、名前の「貞」の字を賜り喜多風貞 となり、左衛門佐従五位上相当)に任官左記より、北風家人名には「貞」のつくものが多い。 しかし、九州から反撃してきた尊氏軍によって、湊川の戦い楠木正成戦死新田義貞と共に喜多風家一門敗走。貞は、猪名川上流の地に隠遁、度々兵庫潜入して再起期す病死する遺児は父の意志継いで尊氏付け狙うが、貞の妻(の尼:本名不明)は一門一時出家させる等、尊氏認められた新領主赤松氏との仲裁奔走喜多風家の命脈繋いだの尼が一門諭した文書が尼ぜ文書であり、滅亡するはずだった喜多風家の面々私心排除して公に奉仕すべしとの家訓残した。これより公に奉仕する伝統北風家に伝わる。また、幕末に荘右衛門家に婿養子入った北風正造は、尼ぜ文書利用して家人説き伏せ勤王志士等を後援した北風家家訓 尼ぜ文書音読原文)尼ぜ御申の事、浄観寺殿すぐれし強者(もさ)におはしまつれど、ひととせの浪の上のさわぎの折、勢い足らざれば、のがすまじい船を取にがいて、果々は、あらぬさまにおのれ落さすらへ給ひぬる。九郎左の小さかしき馬鞍にも事をかき、はかばかしき手の者もあらずして、今、はた、いかがせむにて、はぢをしのび、世にうづまれて、すぐしぬとも、おおん為に思し立ぬる初をわすれずあ子、まごはさらなり、ひい子のひい子の末々の世までも たゆみ無う いひつがせて、類ひ詠う人をふやし、物をたくわへ、時をまちてこそ。人ふゆともわが人とな おぼしそ、物ふゆともわが物とな おぼしそ。おおん為の人、おおん為のものぞ。 (元さらに長文なるも天正の戦乱にて紛失後、家人記憶をたどり復元と) (訳文の尼(尼御前)が以下申しおく浄観寺(貞法名)殿は優れた武将であったが、足利尊氏兵庫の港に襲撃したとき、本来ならば討ち取るべきところを惜しくも逃がしてしまい、結果として落ちぶれてしまった。荷物運びにも不自由となり、よい家人もいなくなったので、今日いかにして生きようかと悩む様な毎日である。たとえ、恥を忍び貧困の中で時を過ごす境遇にあったとしても公に志を抱いた家の始まり忘れず、子や孫や、子々孫々まで言い伝えて境遇に耐え、人を増やし財産増やして時を待ち、再び公に奉仕せよ。人が増えても、わが人と思うな。財産増えても、わが財産と思うな。それは全て公に奉仕する為にそなたたちに一時預けられているものである

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