北風(喜多風)家の成立
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九州に逃げた尊氏の追討将軍である新田義貞から軍忠状とその佩刀を賜り、喜多風(後に北風に改める)の姓、名前の「貞」の字を賜り、喜多風貞村 となり、左衛門佐(従五位上相当)に任官。左記より、北風家の人名には「貞」のつくものが多い。 しかし、九州から反撃してきた尊氏軍によって、湊川の戦いで楠木正成は戦死、新田義貞と共に喜多風家一門は敗走。貞村は、猪名川上流の地に隠遁、度々兵庫に潜入して再起を期すも病死する。遺児は父の意志を継いで尊氏を付け狙うが、貞村の妻(藤の尼:本名不明)は一門を一時出家させる等、尊氏に認められた新領主赤松氏との仲裁に奔走。喜多風家の命脈を繋いだ。 藤の尼が一門を諭した文書が尼ぜ文書であり、滅亡するはずだった喜多風家の面々は私心を排除して公に奉仕すべしとの家訓を残した。これより公に奉仕する伝統が北風家に伝わる。また、幕末に荘右衛門家に婿養子に入った北風正造は、尼ぜ文書を利用して家人を説き伏せ、勤王の志士等を後援した。 北風家家訓 尼ぜ文書 (音読原文)尼ぜ御申の事、浄観寺殿すぐれし強者(もさ)におはしまつれど、ひととせの浪の上のさわぎの折、勢い足らざれば、のがすまじい船を取にがいて、果々は、あらぬさまにおのれ落さすらへ給ひぬる。九郎左の小さかしき馬鞍にも事をかき、はかばかしき手の者もあらずして、今、はた、いかがせむにて、はぢをしのび、世にうづまれて、すぐしぬとも、おおん為に思し立ぬる初をわすれず、あ子、まごはさらなり、ひい子のひい子の末々の世までも たゆみ無う いひつがせて、類ひ詠う人をふやし、物をたくわへ、時をまちてこそ。人ふゆともわが人とな おぼしそ、物ふゆともわが物とな おぼしそ。おおん為の人、おおん為のものぞ。 (元さらに長文なるも天正の戦乱にて紛失後、家人記憶をたどり復元と) (訳文)藤の尼(尼御前)が以下申しおく。浄観寺(貞村の法名)殿は優れた武将であったが、足利尊氏を兵庫の港に襲撃したとき、本来ならば討ち取るべきところを、惜しくも逃がしてしまい、結果として落ちぶれてしまった。荷物運びにも不自由となり、よい家人もいなくなったので、今日いかにして生きようかと悩む様な毎日である。たとえ、恥を忍び、貧困の中で時を過ごす境遇にあったとしても公に志を抱いた家の始まりを忘れず、子や孫や、子々孫々まで言い伝えて、境遇に耐え、人を増やし、財産も増やして、時を待ち、再び公に奉仕せよ。人が増えても、わが人と思うな。財産が増えても、わが財産と思うな。それは全て公に奉仕する為にそなたたちに一時預けられているものである。
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