北寺田家(寺田元吉)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/21 10:00 UTC 版)
元吉は、上記南寺田家の関連企業で取締役を務めていたが、明治末期から準家業としての五十一銀行を足がかりに次々と準家業会社を起こして、独自グループを形成していった。1912年(明治45年/大正元年)の関西製綱、1915年(大正4年)の東洋麻糸紡織設立のための共同出資に大株主として参加し、しかも長男元之助を社長に就任させた。元吉は両社の経営の中心にあり、これらは北寺田家の準家業会社であった。また1915年(大正4年)に共同出資企業泉州織物の経営をてこ入れし、元吉が社長に就任した。 南寺田家が寺田合名を設立した1920年(大正9年)12月には、これに対応するかのように佐野紡績(1896年<明治29年>当時に元吉が個人企業の製綿製米所として創業)を株式会社(払込資本金375万円)に改組、家業会社とした。三家の中では唯一酒造業を維持し、三男正蔵が元朝の醸造を継いだ。 元吉は1923年(大正12年)に佐野紡績社長の座を元之助に譲り1931年(昭和6年)に死去するが、五十一銀行頭取には岸村徳兵が就任する。寺田一族の同行に対する出資比率は高くなく、支配力も決定的なものではなかった。このため佐野紡績を中心とした事業の方に傾注し、1943年(昭和18年)9月に佐野紡績・関西製綱・東洋麻糸紡織・泉州織物を合併して、製綱、麻紡、綿、化繊織を兼ねる帝国産業株式会社(後のテザック)を設立。 寺田元之助は1954年(昭和29年)に、社長を八木芳信(元之助の長女の夫で内務官僚から元之助の要請により専務に就任)に委譲。その後も社長は寺田正男(元之助の三女喜久の夫で元之助の婿養子に入った)・寺田和之(元之助の長男元三郎の娘の夫で元三郎の婿養子)と続いた。元之助には男子も男の孫もいながら、帝国産業の社長には代々女婿あるいは婿養子が就任している。 なお、テザックは2002年(平成14年)7月に会社更生法を申請、事実上倒産した。その後日本植生がスポンサーとなり再建を果たし、2005年(平成17年)12月に更生手続終結となったが、資本的に北寺田家との関係はなくなった。
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