北側の隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/12 14:40 UTC 版)
シャクルトンは南行きの準備をする間に、エッジワース・デイビッドに北側隊をビクトリアランドへ率いて磁気と地質の調査を行うよう指示を与えていた。この隊は南磁極に到達することをめざし、ドライバレー地域で地質調査を行うことになっていた。デイビッド隊はデイビッドの他にダグラス・モーソンとアリステア・マッケイで構成された。人が橇を曳く隊であり、犬は基地に残されて、補給所造りなど他の定常作業に使われた。この隊は南磁極にユニオンジャックを立てることと、ビクトリアランドの土を大英帝国に持ち帰るという命令を受けていた。数日間準備を行い、隊は1908年10月5日に出発し、最初の数マイルはモーターを使って物資を運んだ。 海氷の状態や悪天候のために当初の進行は大変鈍かった。10月末までにマクマード・サウンドを横切り、険しいビクトリアランド海岸を60マイル (100 km) 登り、その時点ですべての努力を南磁極到達に向けることに決めた。ノルデンショルド氷舌と危険なドリガルスキー氷河を横切った後、海岸を離れて北西に転じ、南磁極の想定された点に向かうことができた。この時までにデイビッドは危うくクレバスに落ちそうになったことがあったが、モーソンに救われた。 この隊の内陸台地に登る道は迷路のような氷河(後に王立地理学会の主要地図作成者にちなんでリーブス氷河と名付けられた)を通り、12月27日は固い雪面に着いた。このことでより早く移動できるようになり、1日約10海里 (19 km; 12 マイル) をこなし、定期的な磁気の観測も行えた。1月16日、これら観測結果が南磁極から13海里 (24 km; 15 マイル) に来ていることを示していた。翌1月17日、その目的地に達し、座標南緯72度15分、東経155度16分、標高7,260フィート (2,210 m) に国旗の柱を固定した。控えめな儀式の中で、デイビッドは正式に大英帝国によるこの地域の領有を宣言した。 隊は疲れ、食料も足りなくなっており、ニムロドと海岸で落ち合う場所まで250海里の (460 km; 290 マイル) 帰り道に、15日しか余裕が無かった。肉体的衰弱が募る中で、日々の行程を確保し1月31日には、約束の地点まで16海里 (30 km; 18 マイル) まできていた。その後悪天候のために進行が遅れ、予定地に達したのは2月2日になっていた。その夜、激しい地吹雪の中でニムロドが彼らの横を通り過ぎたが、そのキャンプ地が分からなかった。しかし、その2日後、ニムロドが再度南に戻って来て、この隊を船上から認め、それから急遽救い出すことができたが、その急いでいる間にモーソンが深さ18フィート (5.5 m) のクレバスに落ちることもあった。この隊は4か月間旅しており、その間、ケープ・ロイズを出発した時のままの服を着ていた。「その臭いは圧倒されるほどだった」という報告もあった。この救援の前にニムロドはプリーストリー、ブロックルハースト、バートラム・アーミテージで構成される地質調査隊を拾い上げていた。この隊はフェラー氷河地域の地質を調査していた。
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