労働運動、反戦・平和運動
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「ジャン=リシャール・ブロック」の記事における「労働運動、反戦・平和運動」の解説
ブロックはこの頃から社会主義・共産主義を背景に労働運動、反戦・平和運動にも参加し、1920年には労働運動家ピエール・モナット(フランス語版)の革命サンディカリスムの運動に関わり、モナットが1909年に創刊した『労働者生活』誌に参加。また、1919年にバルビュスが結成した国際反戦・平和運動「クラルテ」への参加を求められ、18か月にわたって躊躇った挙句に参加し、機関誌『クラルテ』の編集委員を務めた。躊躇っていた理由は、「精神の独立宣言」発表およびクラルテ運動結成の直後からバルビュスとロマン・ロランの間に思想的な対立が生じていたからである。クラルテ運動は当初、反戦(反軍国主義)・国際主義を掲げていたが、まもなく資本主義を批判し、ボリシェヴィキを支持。バルビュス自身、コミンテルン加盟を支持し、1923年に共産党を支持し、1923年に入党した。これに対して、ロマン・ロランは当初はクラルテ運動を支持したものの、あくまでも超党派的な国際主義・平和主義を主張し、ボリシェヴィキの武力による革命を批判した。ブロックは『クラルテ』誌の編集委員を引き受けた直後の1921年末から翌22年初めにかけて同誌に「楽観主義と悲観主義」と題する一連の記事を掲載した。これはバルビュスの立場とロランの立場を融合させようとする試みであり、バルビュスは十月革命を盲目的に支持したのではない、彼はロランの戯曲『リリュル』に見られるような悲観主義の立場を取ることはないと論じた。これに対してロランは、『リリュル』における信仰喪失は彼自身のものではなく、彼自身の信仰は揺るぎないと反論した。 この論争は、1923年にロマン・ロランが「精神の独立宣言」に基づく平和主義の文芸雑誌『ユーロープ』を創刊しようとした際にも尾を引いていた。ロランとしてはブロックを編集長に任命したが、ブロックは自らの政治的な信条に従って著作活動に専念したいという理由でこれを断った。ただしこの一方で、『レフォール・リーブル』誌の寄稿者であったデュアメル、ヴィルドラック、バザルジェット、シュヌヴィエールらとともに最も積極的に寄稿し、事実上、『ユーロープ』誌の活動を支えることになった。1936年に刊行された随筆集『ある文化の誕生』は、後のモスクワ滞在中の記事も含め、主に『ユーロープ』誌掲載の記事を編集したものであり、彼の思索と政治活動の経緯をたどることができる。さらに、『ユーロープ』誌の出版社であるリーデル出版社(現フランス大学出版局)の「現代フランス散文作家」叢書の編集長を務めた。
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